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富津は弟橘媛の衣が流れ着いた「布流津(ふるつ)」に由来 10月13日から15日にかけて、式年東大社銚子御神幸(http://kitakamayu.exblog.jp/11530274)の事前取材の一環として、信州における日本武尊の東征伝説関連地を訪れた。紅葉の美しい時期でもある。紅葉狩りも兼ねた。結果をシリーズでお伝えしたい。 第1回目は当然のことながら、群馬県と長野県の県境の碓氷峠に鎮座している熊野神社(http://www.geocities.jp/kumanogonngenn/)だ。同神社の公式HPによれば神社の由来は「景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり」という。 高崎市や前橋市の町並みが一望できる境内には、「日本武尊『吾嬬者耶(あづまはや)』詠嘆の地」と大きく書かれた案内が掲示してあった。日本書紀によれば、日本武尊は雲海から海を連想し、神奈川県の走水で入水した弟橘媛をしのんで、『吾嬬者耶(あづまはや)』とうたった。 7月11日に銚子市青少年文化会館中ホールで開催された銚子雑学塾主催の講演会(演題:「東大社神幸祭は大いなる文化遺産」(http://kitakamayu.exblog.jp/11934679/)の講師を務めた際、神奈川県の久里浜港からフェリーで、千葉県の金谷港に渡った。日本武尊の時代の船は、長さが20~30メートル、20人から30人乗りと想定されている。これに対し、東京湾フェリーが運航している3隻のフェリーは、長さ80メートル弱、570~580人乗り。総トン数は約2800トンから約3500トン。バス16台、乗用車110台、トラック36台を搭載することが出来る。船の大きさや性能が全く違うから、比較の仕様がないが、それでも浦賀水道を渡るイメージを少しでもいいから感じ取りたかった。 7月11日は前夜から強風が吹き荒れていた。午前6時過ぎに東京湾フェリーに電話で確認したら「現在は運行しているが、これ以上強くなると運休する」とのことだった。運休するかどうかの判断は、基本が風速18メートル。これに風向き、うねりなどを考慮し、決定するという。 デッキで写真を撮ろうと思ったが、船が大きく揺れて、立っていることが出来ない。やむなく客室に入った。最前席に座ると猛烈な風によって生じた高い波が、フェリーの船首にぶち当たり、砕け散った波しぶきで客室から前の視界は失われた。船体は波に持ち上げられた後、海底にすうーっと引き込まれる。胃がむかついてくる。 30年以上前の悪い記憶が蘇った。長崎市に住んでいた時、義父に連れられて、五島列島近くまで小さな漁船で、釣りに行ったときのことだ。漁船に乗っての海釣りは初体験だった。ひどい船酔いをした。釣り場までは片道4時間近くかかったと思う。しかし、今回は乗船時間が約40分と短かったので、何とか持ちこたえることができた。 久里浜港に近い走水と、金谷港に近い富津岬は直線距離で6~7キロメートルしかないが、現在でも海が荒れると渡海は大変である。日本武尊の時代の走水からの渡海は、まさに命がけだった。「こんな小さな海、跳び越えてでも渡れる」との日本武尊の不用意な一言が海神の怒りを招き、海が荒れた。このピンチを救ったのが東征に同行していた尊の后の弟橘姫(おとたちばなひめ)で、海に身を投げることで嵐を静め、一行は無事に上総に渡ることができた。 「明確な地図を持たない昔は、峠を制することはその先の地域を制する為に欠かせぬ要素だった分けです。つまり峠は軍事的な要所だった分けです。ましてそこに日本武尊(大和朝廷の東征の使者)が勧請した神が祀られているとなれば、両国ともに手中に収め、その神徳を戴きたいと思うのはごく当然であったとも思われます」(熊野神社公式HP)。碓氷峠で弟橘媛をしのんで、『吾嬬者耶(あづまはや)』とうたったという伝説が生まれても不思議ではない。 【ご参考】 ヤマトタケルの侵攻ルート 「日本武尊は、伊勢や尾張地方で東征のための緒準備を整え、(20人から30人程が乗れる当時としては大型の船を作らせ、50艙から100艙の)大船団と1千人以上の兵員を引き連れ表日本の沿岸沿い(黒潮ルート)に北上し、穀倉地帯を狙って逐次侵攻した。そして日高見(常陸上)の国から内陸に入り、上野を支配していた豊城(トヨキ)命の一族の援助を得て信濃国を征服し、東国征伐を完成した…日本武尊は、圧倒的に優勢な武力を準備し、蝦夷を屈服させた。軍事面で屈服させた後、日本武尊の採った政策は農業生産力の向上だったと推定される。今まで東国で使われていた2~3人乗りの丸木舟に変わって、10人以上が乗れる大型の船を作らせ、漁業を飛躍的に向上させた。蝦夷に高度の技術を提供し、その見返りに米や兵を要求したはずである」(「房総の神話・伝承からみた古代日本の謎」 図書刊行会、金田弘之著) 古墳時代の船 「縄文時代の船はいずれも独木船(まるきぶね、くり船)である。長さ5~7メートル、幅50センチ程度の小さなもので、きっすいも30センチ程度しかないだろうと考える。古墳時代になると、ずっと大型の船が出土してくる。同じくり船でも、縄文時代は単材だったが、3材も4材もたてにつないだ20~30メートル級の船が出現する。船の形も、船首と船尾をそり上げたゴンドラ船が一般化し、くり船の両脇に波よけの舷側板をとりつけた半構造造船になる」(「邪馬台国」朝日新聞学芸部 朝日文庫) 熊野神社の祭神 新宮殿 速玉男命 (はやたまのおのみこと) 「心の健康の守護神」 本宮殿 伊邪那美命(いざなぎのみこと) 「諸神の産みの神・祖先神」 日本武尊 (やまとたけるのみこと) 「当神社の創設者」 那智殿 事解男命 (ことさかのおのみこと) 「人生の難題解決の神」 碓氷峠 碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約960m。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ秒速5mほどで大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら2つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く]。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している。古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
by kitakamayunet
| 2009-10-21 11:03
| 式年東大社銚子御神幸祭
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Comments(0)
Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2009-10-22 16:06
Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2010-02-20 17:49
タイトル : 今度はもう一つの「あづまはや」詠嘆の地足柄峠を訪ねた
「吾妻はや」詠嘆の地・熊野神社を参拝(信州秋の旅①) 昨年10月13日、式年東大社銚子御神幸(http://kitakamayu.exblog.jp/11530274)の事前取材の一環として、信州における日本武尊の東征伝説関連地を訪れた際、群馬県と長野県の県境の碓氷峠を訪れた。日本書紀によれば、日本武尊は雲海から海を連想し、神奈川県の走水で入水した弟橘媛をしのんで、『吾嬬者耶(あづまはや)』とうたった。 ところが「あづまはや…」とうたった場所は、古事記によれば足柄峠だ。古来、群馬県と長野県...... more
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