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開削は「違法」提訴&2・13シンポジウム:緑の洞門通行禁止 中世の「やぐら」と推定される決定的な証拠写真を入手 北鎌倉湧水ネットワークは27日までに、緑の洞門を含む尾根が中世以来の景観の原形を残していることを確信させる決定的な証拠写真を入手した。この写真は昭和42年(1967年)に撮影されたもので、北鎌倉駅ホーム直前で止まっている尾根の先端に近い部分には、主に鎌倉で造られた中世の横穴式墳墓「『やぐら』と推定される」(訂正:「やぐら」ではなく砂礫が洗い流されて生じた凹み )複数の穴が鮮明に写っている。 撮影者は28年間にわたって鎌倉を撮り続けた故・鈴木正一郎さんで、問題の写真は鈴木さんの遺族が、鎌倉市中央図書館に寄贈した2万8千コマに及ぶフィルムの一コマだ。寄贈された写真は劣化が進んでいたため、1年以上の歳月をかけてデジタル化され、鎌倉市中央図書館に保管されている。デジタル化に当たっては、北鎌倉在住の写真家・島村国治さんが大きな役割を果たした。 現在の北鎌倉駅ホームと緑の洞門を含む尾根(撮影日時:2016年5月24日) ホームのフェンス越しに今も「やぐら」が見える ▽緑の洞門開削工事は直ちに中止に 鎌倉市文化財部は「(尾根は横須賀線の)線路部分で削られ(略)宅地化によって削られた」「(尾根の)先端が大きく破壊され(略)旧状をとどめていない」(神奈川新聞2016 4月7日付朝刊)とし、鎌倉市の都市整備部道路課が推進している緑の洞門開削にお墨付きを与えたが、この文化財部の主張は、この写真によって根底から崩壊する。 やぐらがつくられたのは中世だ。横須賀線の開通は明治時代。線路敷設の際、先端が削られたのなら、はるか以前につくられたやぐらがそのまま残っていることに対する説明がつかない。この尾根は文化財部も認めているように円覚寺の結界であると同時に鎌倉幕府の内と外の結界でもある。鎌倉市は緑の洞門開削工事を直ちに中止し、速やかに残された貴重な文化財保護に向けた対応をするべきであろう。 【結界】(デジタル大辞泉の解説) 1 仏語。 ㋐教団内の僧が戒律を犯さないように一定の区域を制限すること。また、その区域。外からの出入りを制限する摂僧界(しょうそうかい)、衣を脱いでも過ちとならない摂衣界(しょうえかい)、食物の貯蔵が許される摂食界(しょうじきかい)がある。 ㋑密教で、修法によって一定の地域に外道・悪魔が入るのを防ぐこと。 ㋒仏道修行の障害となるものの入ることを禁じること。また、その場所。 ㋓寺院で内陣と外陣(げじん)の間、または外陣中に僧と俗の席を区別するために設けた木の柵(さく)。 ▽緑の洞門破壊は世界遺産登録にとって “自殺行為” 鎌倉の歴史的遺産は、1992年(平成4)に「古都鎌倉の寺院・神社ほか」として、ユネスコ世界遺産委員会の暫定リストに掲載され、鎌倉市は2004年(平成16)に「武家の古都・鎌倉」という考え方(コンセプト)をまとめた。しかし、2013年(平成25)4月30日にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)から「不記載」が勧告され、鎌倉市の世界遺産登録の夢は儚く消えた。その理由は乱開発によって、あまりにも目に見える形での歴史遺産が乏しかったためである。 鎌倉市は世界遺産登録に向けて国・県の支援を受けながら①埋蔵文化財の調査、研究などで歴史的遺産を守る②歴史的風土特別保存地区をはじめとした鎌倉の貴重な緑・景観を守る③渋滞対策など、市民の暮らしを守る―に重点を置き、取り組みを強めるなどしてとしている。ならば、中世の貴重な証拠が刻まれた緑の洞門を破壊することは、世界遺産登録にとってまさに“自殺行為”であり、 鎌倉の世界遺産登録は夢のまた夢となるだろう。 ▽横須賀線開通は日清戦争前夜 下記の北鎌倉湧水ネットワークへのコメントにあるように、鎌倉市文化財部によって、円覚寺の結界は、鎌倉街道まで延びていたが、横須賀線開通によって先端部は削られてしまったと一般市民は思い込まされていた。しかし、鈴木正一郎さんの写真はこれまで市民にすり込まれていたこの誤解を打ち砕いた。 ◎北鎌倉湧水ネットワークブログへの書き込み(2016年4月5日) 【町内のものです】 ご苦労様です。 あの岩塊は、かつては線路の向こう側の県道あたりまで稜線が続いていたのであろうと思うのですが、線路の向こう側は現在宅地がありますよね? となると、「鎌倉市の貴重な文化財産」が宅地造成のために壊されたことになるわけで、大変残念なことだと思います。 そのあたりはどうお考えなのでしょうか?ご意見お聞かせください。 【野口回答】 「宅地造成のために文化財が壊されたことは大変残念」というお考えには同感です。ただ、何のためのご質問なのか意図をもっと明確にしてくださるようお願いいたします。「円覚寺の参道を横須賀線が走っています。あなたはどう思いますか」という質問に似ています。 横須賀縁は日本海軍の軍港都市として知られた横須賀への連絡を目的として建設され、1889年(明治22年)に大船駅 - 横須賀駅間で開通した。当時の仮装敵国は清だった。現在の北鎌倉駅付近では円覚寺境内を横切り、また鎌倉駅付近では鶴岡八幡宮の段葛を寸断して線路が敷設された。横須賀線が開通してから5年後に日清戦争が勃発した。 *横須賀線開通前後の国内外の情勢 1886年(明治19年) 陸軍大臣大山巌と海軍大臣西郷従道が内閣総理大臣伊藤博文に対して、横須賀への鉄道敷設を要求 1889年(明治22年) 大船駅 - 横須賀駅間(16.15km)開業。鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅開業。 1894年(明治27年) 日清戦争(日本と清が朝鮮に出兵して開戦) 1914年~18年 (大正3~7年) 第一次世界大戦(日本はロシアに出兵) 1916年(大正5年) 大船駅 - 鎌倉駅間複線化。 1927年(昭和2年) 季節限定の仮停車場として北鎌倉駅営業を開始 1929年 (昭和4年) 世界恐慌(ニューヨークのウォール街の株価が急暴落) 1930年(昭和5年) 北鎌倉駅本開業 1931年 (昭和6年) 満州事変 ▽横須賀線開通は下りホームから 軍事最優先の時代の中でなぜ、なぜ、円覚寺の結界は残されたのだろうか。わたしはかねてから北鎌倉駅の下りホームの幅の違いに興味を持っていた。そして、ここに「結界論争」の結論を導き出すヒントがあると考えた。そこで、JR東日本に問い合わせてみた。 JR東日本の回答のポイントは①岩塊がホームに食い込んでいる訳ではない②現在の下り線が開通当初のルートの可能性が高い③ホームの基本構造は現在も変わっていない―だ。この回答と鈴木正一郎さんの写真と突き合わせてみると、横須賀線の線路とホームは、円覚寺の結界の前を横切っている。というよりホームは結界を境にして、それ以上の円覚寺境内側へ踏み入れるのをやめている。 *JR東日本への質問と回答 質問(2016年5月1日) 北鎌倉駅を利用し、新橋まで通勤している鎌倉在住のサラリーマンです。前から疑問に思っていた北鎌倉駅の下りホームのことをお尋ねしたいと思い、メールいたします。 以下質問です。よろしくお願いいたします。 ①下りホームに岩塊が食い込む格好になっています。この理由を教えてください。 ②横須賀線は当初単線で開通したそうですが、単線は北鎌倉駅の場合、上りホーム側の線路だったのでしょうか。それとも下りホーム側の線路だったのでしょうか。 回答(2016年5月16日) いつもJR東日本ならびにJR東日本ホームページをご利用いただきましてありがとうございます。このたびのご意見につきまして、以下のとおり回答させていただきます。 ①のご質問には、②の回答と重複いたしますが、北鎌倉駅は複線化の後に開業いたしました。開業の際は線路脇にホームとして必要な幅を確保して新設しております。尚、ホームの基本構造は現在も変わっておりません。お客様の申されている箇所は、開業以降に列車編成変更の為のホーム延伸工事等によりホームの幅に差が生じている箇所の事と思われます。岩塊がホームに食い込んでいる訳ではございません。 ②のご質問ですが、お客さまのおっしゃる通り横須賀線は明治22年に大船駅から横須賀駅まで単線で開通いたしました。その後、大正5年に鎌倉駅まで複線へ改修しております。尚、北鎌倉駅は昭和2年に季節限定の仮停車場として営業を開始し、昭和5年に本開業となっております。古い事柄なので詳細な記録は見つかりませんでしたが、周辺楮物の情報を集約しますと現在の下り線が開通当初のルートの可能性が高いです。 ▽円覚寺中興の祖と山岡鉄舟 明治政府が、円覚寺の結界を意識して軍事路線・横須賀線を開設した理由だが、私は円覚寺の歴史から説明できると思う。円覚寺公式HPには「鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました」とある。 横須賀線開通当時の円覚寺の管長は、円覚寺中興の祖の今北洪川老師。横田南嶺管長は著書「禅の名僧に学ぶ生き方の知恵」(致知出版社)で、今北洪川老師を「明治の廃仏毀釈の中、仏法を守り通した」と評している。この今北洪川老師に参じたのが、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人で、かつ明治天皇の侍従・山岡鉄舟。山岡鉄舟は今北洪川老師らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。 時代は日清戦争開戦前夜、国家存亡の危機だった。今北洪川老師の脳裏には円覚寺にまつわる「元寇の役」の歴史が浮かんだはずである。苦渋の決断を迫られた今北洪川老師は、横須賀線が参道を横切るのを了承した代わりに、結界を守ることにした。今北洪川老師は山岡鉄舟を通じて、自らの意向を明治政府に伝えたと推測される。山岡鉄舟は明治21年(1888年)、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命した。前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。明治天皇は、高殿から目送された。 ▽結界意識し、円覚寺門前を一直線に走る軌道 伊藤正義・鶴見大文学部文化財学科教授は、神奈川新聞によれば「旧陸軍陸地測量部や国土地理院などが作成した年代別の地形図7枚を比べ、同線の開通や複線化、宅地化などを経ても尾根の形状に大きな変化が見られないと結論づけた」と主張している。鈴木正一郎さんの一枚の写真が、伊藤正義教授の結論の正当性を裏付けてくれている。 【権兵衛踏切から撮影】 【円覚寺第2踏切から撮影】 さらに言えば南北朝時代(1336~1392年)に制作された円覚寺境内図(円覚寺蔵、重要文化財)に描かれている尾根は、緑の洞門を含む現在の尾根と大きく変わっていない。この境内図は円覚寺の公式HPに掲載されている。権兵衛踏み切り付近から円覚寺の踏切の先までは横須賀線が結界の先端を境に円覚寺側に踏み込まないように総門前を一直線に走っている。このラインは円覚寺境内図とピタリと重なっており、横須賀線は結界を意識して線路が敷かれたと考えるのが自然である。 円覚寺境内図(円覚寺蔵)を拡大すると、白雲庵と尾根の位置関係が分かると同時に尾根の先端が鎌倉街道まで達していいないことが容易に理解できる 昨春お会いした円覚寺の有力役員は「円覚寺の参道を横須賀線が通っていることをご存知か。(円覚寺は国策に協力した過去がある)。緑の洞門の地権者として安全を確保しなければならない。恒久的な安全対策にはトンネルを切り崩すしかない。そうすることで、救急車も通れるようになる」と主張し、鎌倉市道路課と二人三脚で緑の洞門切り崩しに突き進んでいる。 「親鸞 上・下」「蓮如物語」などの著作があり、仏教に造詣の深い直木賞作家・五木寛之は「なにもないところに、高野山の寺院ができたんじゃなくて、大むかしから聖なる場所というのがあって、そこに寺院が建てられてきたということになる。…そういう場所は、なにか日本列島の、地熱とか地場とか、あるエネルギーの噴出口であったり、吸入口であったり、鍼灸でいう経絡の、ツボのような場所でもある」(「霊の発見」五木寛之著/鎌田東二対話 平凡社刊)と述べ、神社仏閣が人間で言えば急所に当たる重要な場所に建立されているとの見解を示している。 緑の洞門消滅は円覚寺建立の根源の喪失にもつながりかねず、創立700年余の円覚寺の歴史に大きな傷となる。円覚寺には開削方針の速やかな撤回と、追加文化財の指定手続き早急に取ることをお願いしたい。2万8千コマに及ぶフィルムの中から今回の写真を発見できたことはある意味では奇跡的なことである。鎌倉をこよなく愛し、長期間にわたって鎌倉を撮り続けた鈴木正一郎さんの思いが、緑の洞門の保全を願う市民の思いと重なり合ったとしか思えない。
by kitakamayunet
| 2016-05-27 16:20
| 洞門山宅地開発問題
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from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2016-05-27 23:21
タイトル : 訂正:「やぐら」ではなく砂礫が洗い流されて生じた凹み
円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 北鎌倉駅沿いの緑の洞門を含む尾根に残された小穴群を「主に鎌倉で造られた中世の横穴式墳墓『やぐら』と推定される複数の穴」と書いたが、ブログを読んでくれた伊藤正義・鶴見大学文化財学科教授から「ホームの女性と外灯ポールの後ろに見える横に連結した小穴群は、三浦層群の堆積物の中で砂と砂礫が集中した箇所で、風雨によって砂礫が洗い流されたために生じた凹みです。『やぐら』ではありませんので訂正した方がよいでしょう。100年程度の風雨ではこのような小穴群は出...... more
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from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2016-05-30 00:31
タイトル : 緑の洞門「十分に文化財の価値がある」文化庁調査員が報告
円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 前文部科学大臣政務官の自民党の山本ともひろ代議士(自民党神奈川4区=横浜市栄区,鎌倉市,逗子市,葉山町=支部長)は、5月28日のツィッターに「昨日、地元の北鎌倉の「緑の洞門」に関して文化庁と協議。今週、初めて文化庁に現地調査をさせた。十分に文化財の価値があるとの調査員の報告を元に、何とか保存出来ないか検討。来週、鎌倉市側と担当者レベルの協議の場を設けさせた。何とかしたい」と投稿した。 これは5月26日のツィッターへの投稿「地元の北鎌...... more
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from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2016-05-30 06:47
タイトル : 横須賀線は円覚寺の結界である緑の洞門避けて開通
円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 28年間にわたって鎌倉を撮り続けた故・鈴木正一郎さんは、横須賀線が、円覚寺の結界である緑の洞門を含む尾根を避けて開通されたことを裏付ける決定的な証拠写真(現在、鎌倉市中央図書館所蔵)も残してくれていた。 拡大版 オリジナル版 昭和40年に鈴木さんが車内から撮影した緑の洞門の写真と、電車を降り、円覚寺方面から撮影した写真を見比べると、北鎌倉駅下りホームの幅がなぜ違っているのかが一目瞭然だ。 横須賀線の線路は円覚...... more
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from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2016-06-03 08:21
タイトル : 6・19円覚寺結界=緑の洞門保存のためのシンポに協賛
円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 6月3日、「円覚寺結界遺構の保全と活用を求める有志一同」から、6月19日(日)午後1時15分~鎌倉市商工会議所地下ホールで開催される「円覚寺の結界とまちづくり~まちかどに残る中世の鎌倉~」の協賛依頼が寄せられた。趣旨に賛同し、協賛する。当日は現在、日時を調整中の用件があるので、参加ははっきりしないが、可能ならば参加するつもりだ。 北鎌倉湧水ネットワーク代表 野口 稔 様 6・19シンポジウム協賛へのお願い 円覚寺結界遺構の保全...... more
Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2016-06-03 11:07
タイトル : 横須賀線開通時、結界(緑の洞門)守った円覚寺の苦悩解明
円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 5月27日に北鎌倉湧水ネットワークのブログに掲載した「円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27」を読んでくれた伊藤正義・鶴見大学文化財学科教授がこのほど、「野口さんの記事は、尾根先端部を守った円覚寺の苦悩を解明した、インパクトのある内容です。この記事を読んで、開削に賛同する寺院関係者が皆無になること、風向きが大きく変わることを願っています」との感想を寄せてくれた。 記事は長文で、後半部分に書かれていたので途中までしか読ま...... more
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from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2016-06-16 21:25
タイトル : 円覚寺結界尾根の学術調査の実施を求める陳情提出6・16
円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 北鎌倉湧水ネットワークは6月16日、鎌倉市議会に「円覚寺結界尾根の学術調査の実施を求める陳情」を提出した。陳情は同日の議会運営委員会で、教育こどもみらい常任委員会に付託されることが決定した。 議会事務局によれば、教育こどもみらい常任委員会は、22日に開催予定で、詳細は20日に決まる。 円覚寺結界尾根の学術調査の実施を求める陳情 1 陳情の要旨 北鎌倉駅下りホーム脇の岩塊・尾根は、重要文化財「円覚寺境内絵図」(円覚寺所蔵)に描か...... more
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不思議
at 2016-06-03 01:29
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円覚寺の横須賀線の詭弁は時代やその役割において比較不可であり論点がずれています。また、宗教法人において有力役員とは代表役員の事を指しているのでしょうか。地検に訴えられたのも円覚寺管長ですから、掘削は円覚寺の総意なんですね。理屈を捏ねてる時点で禅宗坊さんの心を忘れてると言われても仕方無いかと。
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kitakamayunet at 2016-06-03 06:16
有力役員は管長さんではありません。塔中などの住職で構成する役員会の中の有力役員です。円覚寺の内部に精通しているわけではありませんが、伝え聞いたところでは、円覚寺の重要事項は、役員会で決定されるそうです。多分、開削に賛成する有力役員がリードする形で役員会が開削決定し、それを受けて宗教法人代表の管長さんが判を押したというストーリーだと思います。ただ、自らの結界を破壊する暴挙に全員が諸手を挙げて役員全員が賛成することはあり得ないと思います。こうした声を代弁しているのが足立老師だと考えます。
【横浜地検に告発】 岩田かおるのブログ 市長らを宗教法人法違反で告発 http://blog.k-iwata.main.jp/?eid=67
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不思議
at 2016-06-03 19:52
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本山の意向に独り反し黒衣を通した足立老師然り、朝比奈宗源、古川暁道、釈宗演、今北洪川老師と円覚寺歴代管長には塔頭の役員会?の声の大きいだけの意見に判子を押すという禅僧はいなかったように思います。
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kitakamayunet at 2016-06-03 20:45
横田管長は過去の優れた老師に負けないくらい大変立派なお方です。ここまで至るには、何か理由があるのだと思います。
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不思議
at 2016-06-03 23:26
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岩田かおる氏のブログによれば、告訴内容として法人機関紙への掲載や掲示板への告示、そして役員(代表)が「選任役員会」の議決を経た形跡も無い~と書かれております。つまり、円覚寺で開かれたと言われた塔頭有力役員会?とは何も権限の無い役員会で、本当の有力役員会(責任役員会)は開かれなかったと言うことになります。推測無く事実だけ見れば、円覚寺側の説明には矛盾があり大変おかしなことです。
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不思議
at 2016-06-04 00:04
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やはりお金なんですかね。足立老師も新聞で言われていた通り。
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kitakamayunet at 2016-06-04 06:30
岩田かおる氏の告発は横浜地検に提出した状態で、横浜地検が受理はしていないと思います。受理していれば地検は起訴か不起訴か判断するために捜査に入ります。通常、この段階になりますとマスメディアが記事にします。現状は岩田氏の告発内容は、捜査権を持った第3者=横浜地検の判断が示されておりません。なので一般的には主張の正当性が確保さていない状態です。あくまでも岩田氏がそう考えています、ということです。
*受理 「申請や届出という他人の行為を公の機関が有効な行為として受け取る意思表示」としての意味がある。たんに物理的に受け取ったという意味ではなく、届出が有効であることを認める受理者の意思が入った行為。 ご参考 *土地や墓地の高値売却が狙い?:緑の洞門通行禁止 http://kitakamayu.exblog.jp/24387828/
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