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無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(1) 取材ノート(2) 「この写真を掲げて伝えて後世に残したい」(新) 「馬車馬的に(働いた)不屈の一生だった」(初太郎) ここに掲載する二通の手紙は、最初の一通が私の父、新(あらた)が昭和四十九年八月十九日に、銚子市に住んでいた初太郎に宛てたもの。初太郎が昭和天皇に両総用排水事業の説明をしている写真を拡大して焼いてくれたことへの礼状で、礼状には初太郎の依頼を受けて調べた先祖新右衛門(私に実家の屋号)の家系書が同封されていた。 二通目の手紙は、新の手紙への初太郎からの返信だ。差出日は昭和四十九年八月二十二日。この手紙をやり取りしてから、父は三年後の昭和五十二年(一九七七年)九月一日、この世を去った。享年六十九歳。初太郎もこの後を追うように翌年の昭和五十三年(一九七八年)三月十六日、帰らぬ人となった。享年九十一歳。 思い出をたどることは、過去の再発見といっていいかもしれない。父の家系図調査は初太郎の自叙伝を完成させたいとの思いとリンクしていた。父の手紙の筆跡を見て、懐かしい父に巡りあえたような気がする。物静かで優しい父だった。親不孝をして早死にさせてしまったようだ。申し訳ない。 繰り返しになるが三冊目の本として考えている「無名人からの伝言―大利根用水に賭けた野口初太郎不屈の人生―」(仮題)の出発点は、実家の居間にかかっている初太郎と昭和天皇の写真だ。写真の意味が二通の手紙で明確になった。後世に伝えたいという父の思い。そして、自叙伝を出そうと思って果たせなかった初太郎の思い。無名人の二人の思い(伝言)をしっかりと受け止めて、書き進めたい。 銚子市清水台 野口 初太郎様 前略 先日のお願い、早速撮影下されて誠にありがとうございました。 私のお願いの趣旨は電話で申し上げました通り、現代の日本の自由主義社会は今更申し上げるまでもなく憲法第一条に天皇は国、日本の象徴であり、日本国民の統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくとある。このような意義をもって叔父さんが苦学力行の結果、日本の歴史に残る大利根、両総の両水を完成し、現在の地位を獲得し、直接陛下にご説明申し上げておる写真を写真は一人叔父さんの名誉ばかりでなく、先祖野口家にもこういう逸材があったという物語として終わらしたくない。かつまた子どもの教育上、その他あらゆる観点から現実に永く残る写真を掲げて伝えて後世に残したいと思念し、お願いした次第です。私の真意、何とぞご了察お願いいたします。 次に二年前、先祖の歴史の調査の依頼がありましたが今回、重ね詳細に谷津過去帳とわが家の位牌とを併せて調査した結果を申し上げます。調査の結果、本家が屋敷替えしたために全然資料をなくし、別表の通り、出発点が兄弟関係にあるため、全部六代目で止まっております。新左衛門の名前はあります。新左衛門の前の屋敷、わが家の三百メートル(先)に古井戸があり、江戸時代の国学者・神道家の平田篤胤の隠れ家として住んでいたということを小南の民生委員から聞きました。(野口)和吉郎翁音春(六代前の実家の本家の当主の兄弟)は、香取神道流指南役?篤胤の門下生であったことは十分裏付けがあり、和吉郎の子春胤は銚子陣屋勤めをして(おり、)天狗騒動に(ついて記述のある)陣中日記(を)音春が持っており、和吉郎翁音春の仏像を(和吉郎翁音春を襲名した子孫の)音春が持っております。家の九十一歳で亡くなったくまは、中興の祖として位牌に書いてあり、神道の信者で八十八歳を祝って神道の〇〇長(より)贈られた和歌があります。そのような関係で平田篤胤とは密接なる関係(がありました。)幕府に追われて本家と○木に身を寄せておる事実は十分察せられます。とにかく、私が調査したことを同封し(ます。)参考に多少でもなれば幸いです。 そのうち私も一回是非伺いたいと思っております。まずは御礼かたがた雑談を申し上げて失礼します。叔父さんも元気に頑張って長生きをしてください。皆さまも是非、来てください。乱筆にて失礼します。 敬具 八、一九、 東庄町谷津 野口 新 香取郡東庄町谷津 野口新様 新様 貴書拝見しました。酷暑の折柄、皆さまお差し障りなきご様子、お喜び申し上げます。 先日、写真の件でご配慮に預かり、ありがたく存じます。大いに名誉と思います。額縁については、いろいろお好みもあろうと存じご相談してから整えようと考えておりましたが、急に取りに来られたのでそのまま裸でお渡しいたし申し訳ありません。 あの写真を後世に残してくださるお心持ちにはありがたく感謝の極みであります。 私自身は一向に勝れたものではありませんが、貴文の通り、苦学力行そのものです。あなたもご承知の通り、十一歳の幼時、家を離れ質店の丁稚奉公十年間、奴隷のような生活をさせられ、その後やっと自らの意志に従い、行動を始めたのです。 勉学もしたいが生活もせねばならぬと、あなたの文にあるような苦学力行をやったのです。論勤めをやるには中学も出ておらぬ身、苦労をしました。殊に役人務めには最も必要なのは学歴で、周囲は大学卒業が多く、私の努力で伸びようとすれば白眼視されたり、圧迫を受けたりして涙を呑んだことがあります。これらの裏面生活はまたお話しする機会がありましょう。八十年の腰弁生活は特に勝れた功績もないが、只々馬車馬的に(働いた)不屈の一生でした。 次に先祖の系統をよくお調べくだされてお届けに預かり、ありがとう存じました。御礼申し上げます。 私も家系と自歴書を残しておく考えである程度書き出しましたが、他の人に見せるような出来栄えでなく、中途までで休んでおります。近ごろでは視力も弱りましたので筆持つこと、読むことも大儀となりました。 私も特に病気と申すようなことはありませんで段々老衰が目立ってきました。 あなたはまだまだ私よりお若いですから出かけられましょうから皆さまとご同行下さるようお待ちします。 谷津の者は皆、善良な者たちであるが家系を見て伯父の新三郎、従兄弟の新太郎さんなど皆、私をお世話してくだされたこと、愛してくれたことなどいろいろ思い出します。いずれは私も逝かねばならぬが、これらの私の好きな人たちがなぜ早くなくなったかと思い、残念に思います。 まだ、残暑が強い折、一層〇大切に願います。 皆さまによろしく。 初太郎 昭和四十九年八月二十二日 追筆 先日、新之の遺児、信之が母親と二泊して帰りました。将来を考えますと私の悩みの種です。 東京に勤めておる娘洋子も婚期を過ぎて一生、嫁に行かないと頑張っております。これも私の悩みの種です。 当家庭は夫婦も円満で三歳と一歳の女子あり、これは幸せに暮らしております。私も日々を二人の孫を相手に遊んでおります。 乱筆御免 昭和四十九年八月二十二日 銚子市清水町二八一四 野口初太郎 (注)二通の手紙は読みやすくするため、原文を「記者ハンドブック 新聞用字用語集」(共同通信社)に従って、一部手直しをするなどしてあります。〇は判読不能の文字です。 *平田 篤胤 平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))は、江戸時代後期の国学者・神道家。秋田久保田の城下なる下谷地町に佐竹家の藩士大和田清兵衛の子息として生誕す。幼名正吉。寛政2年元服してからは胤行と名乗り、享和年間以降は篤胤と称す。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては、玄琢を使っている。死後、神霊能真柱大人(かむたま の みはしら の うし)の名を白川家より贈られている。 秋田藩士の四男として生まれ、成人してから備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。その思想は後の神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えた。又篤胤は机上の文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤の独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教も進んで研究分析し八家の学と自ら称していたようで、ラテン語やキリスト教の教義まで吸収していたようである。関心は広く、暦学・易学・軍学などにも精通していた。 篤胤の学説は学者や有識者にのみ向けられたのではなく、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、やがて国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に信濃の文学者島崎藤村は『夜明け前』と言う作品の中で平田学派について詳細に述べている。 復古神道の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋) *香取神道流 日本最古の武道の源流を今に伝える天真正伝香取神道流は、香取郡飯笹村(現在の多古町)に生まれた武将<飯篠長威斎家直(1387~1488)が 室町時代中期に興した武術です。その内容は多彩で、剣術、居合術、槍術、薙刀術、手裏剣術、棒術、築城術など所謂武芸十八般と呼ぶべき総合武術です。現在、第20代宗家は香取市香取におり、唯一の極意皆伝者である大竹利典さんが、下福田の道場で香取神道流の型を伝えています。 香取神道流の特徴は、常に戦国時代さながらの実践を念頭に置き、相手の攻撃に対し一瞬早い攻撃により必ず倒すという、すべての技に一撃必殺の工夫がなされていることです。稽古では木刀を使い防具は着けません。常に死と隣り合わせている大変厳しいものです。しかしその一方で“兵法は平法なり”として、戦うことを厳しく戒めています。すなわち兵法は平和のための法であって、戦わずして勝利を得ることが最上であると教えているのです。“一撃必殺”の技術の習得と“平法”の順守。一見矛盾するこの問題を実践すべく大竹師範は日々精進されています。(成田市広報紙より) *天狗騒動 江戸時代末期、徳川幕府の鎖国政策をめぐって鎖国派(攘夷派)と開国派とに分かれ次第に激しい争いとなりました。 そうした中で起きたのが「安政の大獄」や「桜田門外の変」だったのです。 水戸藩の攘夷派で、しかも急進派の藤田小四郎、武田耕雲斉、田丸稲之衛門等は開国に傾いて来た幕府の考えを改めさせようと、元治元年(1864)三月に天狗党を結成し、同志を集めて筑波山に挙兵したのです。これが世に言う「天狗騒動」です。 その後天狗党は大挙して上洛の途中、加賀藩によって鎮圧されましたが、それまで各地の村々や豪商から多額の軍資金を徴発する等、その行動は目に余るものがあったようです。 (「小見川のむかしばなし」より抜粋)
by kitakamayunet
| 2007-01-27 11:20
| 無名人からの伝言
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Trackback(2)
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Comments(2)
Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2007-02-04 00:02
タイトル : 無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(3)
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(2) 大利根用水は両総用排水の父たる兄たるもの 取材ノート(3)―「不屈の八十年 自叙伝」から① 天皇陛下と私(昭和二十一年六月六日) 大正より昭和の今も 大利根の水引わざに 身の幸を識る 昭和四十一年三月 野口初太郎 (大利根干潟水利組合連合主任技師の時代) (11)足跡 …以上のごとく香取、海上、匝瑳三郡の土地改良事業に従事した私の足跡としては最大なものである大利根用水事業がある。また、関係した大事業は両総用排水事業である。前...... more
Tracked
from ネットde家系図:パワー..
at 2008-12-13 15:11
Commented
by
シェイクスピア美術館
at 2007-02-02 15:04
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島崎藤村とシェイクスピアの深い関係が明らかに
なりました!藤村にご関心ある人も、シェイクス ピアにご関心ある人も大きな驚きと楽しみをご発 見になることと思われます。知的好奇心のある方 は是非お出かけ下さい。
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わっ!!びっくりしましてね!!
じつは、私の父がこの野口和吉郎音春を継ぐことになっていたんです。 現、通町に生まれたときに婿養子になるべく、、、、らしいです。 本文中にある内容は生前よく聞かされてました。 円福寺に有る墓は今は私がミてます。 春胤の写真が有ります。 谷津には子供のころからよく連れて行ってもらってました このブロみて、びっくり!! もしかして、にいやの稔か?
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