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無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(10) 取材ノート(11) 【小僧時代】 座右の銘は「精神一到何事かならざらん…」 将来を信じ寸暇を惜しみ、自力で勉強 修行時代が困難にはけない意志の強い人間つくる 堪忍袋苦の緒が切れて一時、質屋を飛び出す 初太郎が東京の質屋へ丁稚奉公に出されていた小僧時代は、十一歳から二十一歳までの約十年間で、まさに艱難辛苦の修業時代だった。十一歳という年齢は、今でいうと小学校五年生である。いくらがえん坊といってもまだ子どもである。「弟妹たちと別れるのが実に辛かった。祖母が銚子へ来て私を伴い汽船で笹川まで行き、いったん(母の実家の)五郷内(現香取市五郷内)へ落ち着き、数日後再び汽船にのり、東京・本所区に上陸して伯母の家へ着いた。途中、船の上で郷里の家のこと、弟妹たちのこと、友だちのことなど考えて胸が一杯になり泣いて涙を流した」 わたしは初太郎の悲しい気持ちを不憫に思うと同時に「汽船」という言葉に注目した。当時、利根川がヒトやモノの重要な輸送路で今よりはるかに近い存在だったことが分るからだ。それと初太郎と利根川の「縁(えにし)」を感じさせる。「わたしの幼年時代に利根川の河口で漁船の遭難事故が続出した。わたしは自分が成人したら河口を改修して難船をないようにしてやろうと夢のような考えを持ったこともあった。しかし、わたしは河口の改修には関係できなかったが利根川の用水や河口堰に関係することになった」 伯母の家はお菓子屋さんだった。伯母の家に数日間滞在した後、奉公先の質店を経営する芝区備前町の男全久蔵の家へ送られていった。主人は銚子生まれで、男全家に婿に入った。小僧上がりで「家の外に落ちている紙くずでも拾って使う」ほどの大変な倹約家で「酷使はしないが、無駄に遊ばせないようにと常に与えるべき仕事を考え、使役した」。質屋には番頭のほかに浅ドン、清ドンという名前の小僧がいた。浅ドンと清ドンは二人とも初太郎より一歳上だった。 小僧時代の日課は蒔き割り、風呂汲み、釜焚き、家の拭き掃除、使い走り、子守など。一番年下だったのでいつも最悪の役割を引き受けさせられた。「上京の折、近所の工場のドラの音が耳に入ると郷愁を覚え、今頃は弟や妹たちは何をして遊んでいるか、父や母は何をしているかと考えて涙が流れた。当分は郷里のことばかり考え泣いてばかりいた。誤って足に火傷を負ったが誰の手当ても受けられず、痛みを耐えて蔵の二階へ上り、一人で泣いていた」 ある時(十四、五歳のころ)遂に初太郎の堪忍袋の緒が切れた。「朝表戸を開けてみると軒下に人の大便がしてあった。(小僧の)誰もが取り片付けるのが嫌でそのままにして見ていたら番頭がわたしに向かい『お前の役割だ』と言った。その押し付け的な命令には納得が出来ずに抗議して応じなかったなかったので番頭は大憤慨してわたしを殴打したので、わたしも承知せず殴り返して大喧嘩になった。小僧勤めが嫌になりそのまま主家を飛び出して本所の伯母の家へ行き、暇を取ってくれと頼んだ」 伯母と伯父は初太郎に質屋に戻るよう一生県政説得した。質屋からも使いの者が来たが初太郎は頑として応じなかった。戻る見込みがないと考えた伯母と伯父は、銚子の実家とも相談し、銚子に帰すことにした。実家に帰ると父と母は連日、東京の質屋に戻るよう説得を繰り返したが、初太郎は首を縦に振らなかった。手に負えなくなった父母は谷津(父の生家)に送り、祖父や伯父に説得を依頼した。しかし、これまた失敗に終わった。結局、この“逃走劇”の期間は二、三カ月でピリオドを打った。「頼りになる味方はおらず、ただ父母の焦燥の毎日でわたしも辛かった。反意したきっかけは不明なれど剛情を続けたわたしも折れて再び上京して男全へ戻ることにした」 当時は年季まで無事に勤め上げる、いわゆる年季明けになると、主人から新規開店に必要な資金を出資してもらうか、支店を持たされる習わしがあった。「二十一歳まで勤めたのだから、いま少し辛抱して円満退職すれば何とかしてもらうことができたかも知れなかったが、飛躍的な志望に目覚め、時代遅れの質商などやる気がなくなったので、主人とのちょっとの言い争いをきっかけに暇を取ることにした」。今でいう退職金二十円、衣類数点を手に、艱難辛苦の修業時代は幕を閉じた。 見習い奉公を辞めたタイミングは兵隊検査後だった。身長五尺六寸、体重十五貫五百匁で、背丈は一緒に兵隊検査を受けた仲間の中では大きい方だったが、近眼のため、落とされた。近眼は男全での小僧時代に暗い中での読書のせいだった。初太郎はこの時代を次のように総括している。「約十年間、丁稚奉公をしたがその功罪は具体的にはほとんどなかった。無駄歩きをして成年に達した。無理につくればただ寸暇を惜しみ、自力で勉強し、中学卒業程度の学問を学んだこと。また、昔の偉人伝を読んで向上心を燃やし、困難辛苦の経験を積んだので困難には負けない意志の強い人間になったことのように自惚れながら思う。この時代の座右の銘としては『精神一到何事かならざらん 石に立つ矢のためしあり』であって、永い丁稚奉公は失敗に終わったが、方向転換の上、発展の途を開こうと決心した」 初太郎は「無駄歩きをした」というけれども、この修行時代が後の彼の「不屈の人生」の礎になったとわたしは思う。彼の勉強ぶりは「風呂を焚きながら、薪を割る間も本を見た。英語も独学でやった」というくらい徹底していた。辛い現実からの逃避もあったかもしれないが、「飛躍的な志望」を胸に秘め、勉強はその志望を実現するための不可欠な手段と捉えていたから、勉強を継続できたのだと思う。
by kitakamayunet
| 2007-08-23 11:27
| 無名人からの伝言
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from 日本でも発売開始今注目の..
at 2007-08-23 14:46
タイトル : 今注目の”ZIPIT”不思議なバッグ
不思議なバッグ”ZIPIT”『トレたま』で紹介されました!!!世界各国の人気商品。アメリカではSPREESHOWのSPECIALITY RETAILも受賞した。日本では、6月下旬からは正規代理店がついて拡販されます。一気にソニプラとかロフトとかに置かれそうだし、六本木ヒルズやプランタンのワゴン販売なんかにも登場しそうだ『トレたま』で紹介されました!!!不思議なバッグ”ZIPIT”『トレたま』で紹介されました!!!”ZIPIT”不思議なバッグ... more
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from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2007-08-25 15:24
タイトル : 無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(12)
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(11) 取材ノート(12) 【放浪時代】 郵便局を辞め、志を抱いて再び上京 東京府内務部土木課に就職決定銚子では浜田簿記学校に入塾、柔道も学ぶ 初太郎の自立に向けての離陸前夜と位置付けられる。時代遅れの質屋に見切りをつけて銚子に実家に戻った明治三十八年(一九〇五年)ごろから明治四十一年(一九〇八年)に東京府内務部土木課に就職するまでの時代である。傷心の帰郷を果たしたものの、そこには初太郎の居場所はなかった。三年という短い期間ではあるが、理想と現実の...... more
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from 退職届の書き方
at 2007-09-03 11:48
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from 質屋
at 2008-12-14 12:58
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