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無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(16) 取材ノート(17) 【千葉県時代】(3) 干潟耕地改良工事の大命下る 薬石効なく妻すず子が永眠 大正十三年度(?)より政府は食料増産の目的で用排水幹線改良事業の補助規則を設定した。本県は県下十河川の改良工事を計画したが、そのうちの干潟耕地の排水幹線の新川は他の二、三の河川とともに初年度に選ばれた。わたしが前の基本調査を行った関係からか、着工前十数日間、干潟地区へ派遣され、関係十数カ町村にわたって新川改修によって得られる利益の程度を調査した。この利益の割合によって改修費の負担金を定め、各町村に割り当て、この承諾を受けて新川の改修工事を軌道に乗せることにした。町村によって多少の抵抗もあったが、着工可能となった。 その数ヶ月後、わたしに干潟耕地一円の用排水改良工事と区画整理にも及ぶ大事業を地元民に勧め実現せしむるようにとの大命が下った。数年滞在した市原郡、匝瑳郡、長生郡の山間より手を引き、大耕地でしかも郷里に近い香取、匝瑳、海上の三郡にわたる広大な区域を担当することになったので、喜んでお受けした。 大正十二年の秋、関係した各地区で送別会を催してくれ、感謝状と記念品をもらい、地の者と決別することになった。感慨無量であった。その年の暮れ、病妻と子どもたちと共に荷物を荷馬車に載せて鶴舞町より海上郡旭町に移転した。当時、覇人は八歳、新之は四歳で覇人の方は鶴舞小学校生徒であったが旭小学校へ転向した。 旭町に居を構えてからは地方の耕地整理地区を担当すると共に干潟耕地の用排水改良事業に従事することになった。また、他の小規模な新規開発に努め、銚子市の周辺の耕地整理地区はもちろん、住居地整理までに及びつつあった。一方、大利根用水事業の計画を行い、遂に実現するまでに至ったのである。(詳細は大利根用水時代参照) 旭町の住居は弘楽館の前の横町にあった。妻すず子の病状はますます重く、起居も意のごとくならなかった。時々苦痛を訴えた。その姿は哀れであった。庭でホウレンソウを作ったが、「春になれば食べられるね」と床の中から言った。己の生命が春まで維持できるかどうかと思えるのに左様な先の楽しみを持ったその心根に胸が一杯になった。わたしは家に重病の妻と幼い子どもたちを置き、外は大事業と取り組んでいたので、看護も十分してやれなかった。しかし、実家が近かったので母が時折、見舞いに来てくれた。 東京の父は鶴舞町に在住中に一度来たが、その折はさほど悪くなかった。わたしは父を連れ、一宮海岸まで遊びに出かけた。父は喜んで帰京した。今度は病が重いので見舞いに来たのであるから前とは事情が違う。心を痛めていた様子であった。父の帰京に際し、すず子が父に謡曲を聞かせると言って、一曲披露した。父は涙を流して聴き入った。これが父との最後の別れとなった。傍らにいたわたしは断腸の思いがした。旭町に移って一年有余、大正十四年一月十六日、春に背いて遂に薬石効なく妻は永眠した。 葬儀は銚子の実家で行うため、妻の遺体を銚子に運んだ。その折、旭町の三羽烏といわれた加瀬義三郎、竹内郁太郎、伴藤○(空白)の三人が、家の前で送ってくれたが、目に焼きついて残っている。この三人の壮士も既に故人となっている。それから間もなく銚子の田中町の実家の父母と同居することになり、前述のごとく覇人は旭小学校より銚子の清水小学校に転向。新之も清水小学校へ入学して、銚子子として成人することになった。 ■大利根用水の軌跡 大正五年(一九一六年) 早害や水害発生 大正十三年(一九二四年) 大旱魃発生・収穫皆無540町歩におよぶ 大正十四年(一九二五年) 野口初太郎が利根川取水の大利根用水計画(案)を樹立
by kitakamayunet
| 2007-09-07 23:35
| 無名人からの伝言
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Trackback(2)
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Comments(0)
Tracked
from マナブならcocoガイド
at 2007-09-08 12:19
タイトル : こんにちは
突然のあいさつで大変申し訳ございません。 私たちは「自分磨き」のホームページを作っているものです。 自分自身のレベルアップのためにスクールや、レッスン、習い事等をチャレンジしてみませんか? また、資格や検定といったコースの情報もあります。 毎日の生活に新しい1ページを! もし必要でなければお手数ですが、削除されても構いません。 それでは、失礼致します。m(._.)m... more
Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2007-09-28 09:13
タイトル : 無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(18)
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(17) 取材ノート(18) 【千葉県時代】(4) 昭和10年、大利根用水事業遂に着工 県庁を去り、両総用排水事業に取り組む 初太郎は昭和五十三年(一九七八年)三月十六日亡くなった。享年九十一歳。長寿であった。しかし、弟妹はほとんどが幼いときに亡くなった。「成人してから、二男米治郎は東京にて死に、長女せんは、谷津二男長治郎に嫁ぎたるも二十二歳で病死した。二女のくに子だけが生存していた。 初太郎、妹らの紹介でせつ子と再婚 (最初の夫とは死別し...... more
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