北鎌倉湧水ネットワーク:式年東大社銚子御神幸祭
2020-03-30T10:35:07+09:00
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お宝情報満載!「ガイドブックに載らない北鎌倉の神々」(夢工房)
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4・11東大社桜井神幸祭中止、新型コロナウイルスで
http://kitakamayu.exblog.jp/30932556/
2020-03-30T10:33:00+09:00
2020-03-30T10:35:07+09:00
2020-03-30T10:33:51+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、4月11日(土)に開催が予定されていたわたしの故郷の氏神様「東大社」(香取郡東庄町宮本)の桜井神幸祭が中止になった。利根川下流の桜井浜に東大社の神輿は、2年に一度神幸している。20年に一度、外川海岸に神幸する「式年銚子大神幸祭」を、「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し「桜井みゆき」と呼んでいる金幣2年に一度開催される。
母の命日が3月30日だ。お墓参りを兼ねて桜井神幸祭を見学するつもりでいた。東大社関係者によると毎年行っている4月8日の春の例祭は宮司さんと息子さんの2人のみで行い、この後、金幣を桜井浜に持って行き、禊をするという。おりしも東庄町にある障害者福祉施設、「北総育成園」では3月29日までに86人の新型コロナウイルスの集団感染が確認されており、「町はピリピリしています」と東大社関係者は話していた。
千葉の障害者施設 新たに28人感染確認 計86人に (NHK 2020年3月29日 19時48分 )千葉県は、新型コロナウイルスの集団感染が確認された東庄町の障害者福祉施設、「北総育成園」で29日、新たに入所者など28人の感染が分かったと発表しました。この施設の関係者で感染が確認された人は合わせて86人となりました。
東庄町にある障害者福祉施設、「北総育成園」では、28日までに職員や入所者58人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されています。
千葉県によりますと、29日、残りの職員や入所者、短期の利用者、それに職員の家族などおよそ140人の検体を採取し、ウイルス検査を行ったということです。
午後7時半の時点で、このうち80人の結果が出て、新たに入所者20人と職員の家族8人の合わせて28人の感染が判明したということです。
新たに感染が分かった入所者の20人は、これまで症状がなかったということで、県は引き続き経過を観察する方針です。
一方、28日までに感染が確認された入所者のうち、20代から50代までの4人が、医師の診察の結果、入院の必要があることが分かり、これまでに3人が医療機関に搬送され、このうち40代の男性は肺炎と診断されたということです。
また、残る1人も30日入院する予定だということです。
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【昇仙峡再訪】②標高トップ3の名峰一望11・12~13
http://kitakamayu.exblog.jp/30581873/
2019-11-23T13:43:00+09:00
2019-11-23T13:47:57+09:00
2019-11-23T13:43:41+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
清泉寮ジャージーハットから富士山、北岳、間ノ岳、甲斐駒ヶ岳が見れた!
少し、日にちが経過してしまったが、【昇仙峡再訪】の後編を掲載する。雄大かつ美しい風景にいたく感動したので、それを記録に残しておきたい。11月11日に山梨県屈指の超パワースポット昇仙峡を再訪した後、小淵沢のホテルに2泊して周辺の観光を楽しんだ。昇仙峡からホテルに向かって車を走らせていたら、途中で嵐になった。しかし、12日、13日は天候が回復し、日本の標高の高い山ランキング1位の富士山、2位の北岳、3位の間ノ岳の名峰を同時に眺めることができた。小淵沢周辺はカラマツとモミジの紅葉が見ごろを迎えていた。そのすばらしい空間に身を置くことに幸せを感じた。
日本百名山.net(https://日本百名山.net/index.html)日本の標高の高い山ランキング BEST30 1 富士山 ふじさん 3,776.24 独立峰 2 北岳 きただけ 3,193.2 赤石山脈(南アルプス) 3 奥穂高岳 おくほたかだけ 3,190 飛騨山脈(北アルプス) 3 間ノ岳 あいのだけ 3,190 赤石山脈(南アルプス) 24 甲斐駒ヶ岳 かいこまがたけ 2,967 赤石山脈(南アルプス)
【公益財団法人キープ協会http://www.keep.or.jp/の自然歩道(トレイル)】
キープ協会内には30分から半日まで、時間と体力に合わせて選べる自然歩道(トレイル)がある。約5キロ、1時間半くらい歩いた。
【まきば公園と山梨県立八ヶ岳牧場】まきば公園からも富士山、北岳、間ノ岳、甲斐駒ヶ岳を一望できる。ただし、まきば公園の駐車場は12日から立ち入り禁止になった。また、県立八ヶ岳牧場の牛の放牧もこの日が最後。高原は冬支度に入った。牧場の後方に赤岳が見えた。
【赤岳】 八ヶ岳の最高峰。山頂は三つのピークを持ち、それぞれ「北峰」「南峰」「竜頭(りゅうとう)峰」と呼ばれる。北峰には「赤岳頂上山荘」が立ち、南峰には三角点と赤岳神社の祠がある。この南峰が最高点の2.899.17mである。((Yamareco https://www.yamareco.com/より転載))
【入笠山】入笠山(にゅうかさやま、にゅうがさやま)は、長野県の中西部にある赤石山脈(南アルプス)北端の標高1,955 mの山。赤石山脈(南アルプス)の最北部にある山で、いわゆる「南アルプス前衛の山」の一つ。(Yamareco https://www.yamareco.com/より転載)]]>
【昇仙峡再訪】⓵超パワースポット金桜神社参拝11・11
http://kitakamayu.exblog.jp/30573553/
2019-11-17T08:24:00+09:00
2019-11-17T08:34:50+09:00
2019-11-17T08:24:50+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
11月11日、山梨県屈指の超パワースポット昇仙峡を再訪した。昇仙峡を初めて訪れたのは昨年のほぼ同じ時期だった。力強いエネルギーと湿り気を帯びた清らかな空気に満ち溢れた心地良い空間に身を置いた瞬間、心身がリフレッシュされた。ちょっと大げさだが、「来年も訪れよう」と心に決めていた。 今年は新たな楽しみがあった。「「数年前まで父が(昇仙峡に)お店を出していた」という六国見山の手入れと畑仲間である佐野武さんから「金桜神社を是非とも参拝してほしい」と勧められていた。昨年は宿への到着時間の関係で、後ろ髪惹かれる思いで前を素通りしてしまい、それ以来、気になっていた。
【金桜神社】 境内の掲示板で由来を読み、金桜神社が日本武尊の東征伝説の舞台の一つでもあったのを知り、感激した。9年前、「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景- http://www.kitakama-yusui.net/7/7fusano.html」を出版した。出版に先立ち、約6年かけて「日本武尊の東征伝説」に登場する纒向日代宮(まきむくのひしろのみや、奈良県)、伊勢神宮(三重県)、熱田神宮(愛知県)、走水神社(神奈川県)、熊野神社(長野県と群馬県の県境・碓氷峠)といった伝説の「舞台」を歴訪した。日本という国の成り立ち、宗教とは何かをじっくりと考える絶好の機会となった。当時を思い出し、あらためて今後を考えてみようと思った。由来第十代崇神天皇の御代(約2000年前)、各地に疾病が蔓延し悲惨をきわめた折、天皇は諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をなさいました。甲斐の国においては、当社より北方20Km、標高2595mの金峰山山頂に医薬、禁厭の守護神を鎮祭されました。御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。その後、第十二代景行天皇の御代、日本武命東国巡行の際には、国土開発のため、須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)=大国主命おおくにぬしのみこと)をあわせ祀られました。
御神木の「金櫻」(種類は鬱金桜) 御神宝はこの地で発掘され磨き出された水晶「火の玉・水の玉」 【昇仙峡】落差は30mの仙娥滝(せんがたき)日が射していいたので、虹がかかっていた。ラッキー!
昇仙峡のシンボル「覚円峰」 天空の杜(https://tenku-mori.com/#4)「覚円峰」や渓谷美を間近に望めるウッドデッキのテラス。昨年、訪れた時に六晶石ほっとパット(http://rokusyo-stone.com/rokusho.html)を勧められた。当時、妻が肩の痛みを訴えていた。試してみたら、体を温めてくれた。そこで六晶石ほっとパット(眼用、首・肩用、背中・腰用・おしり用)を1セット購入した。冬の寒い時期、首・肩用と背中・腰用・おしり用を妻と交互に使った。あたたかくてすっと眠りに入ることができた。今回は使いやすい背中・腰用・おしり用のみを購入した。 【ご参考】金桜神社の祭神について簡単な説明をしたい。この説明を頭に入れて由緒を読むといろいろな想像ができる。より楽しく金桜神社参拝ができるであろう。
少彦名命 日本の神話に、大国主命の国造りの協力者として登場する、海からやってきた小さな神。
大己貴命(大国主命) 素戔嗚命の子、または6世の孫とされ、出雲大社の祭神。少彦名神とともに、中つ国(日本)の経営を行ったが、素戔嗚命の姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者が来ると国土を献上してみずからは隠退した。
崇神天皇(すじんてんのう 紀元前148年~紀元前29年)古事記・日本書紀に記されている第10代天皇。現代の学術的に実在が否定されていない最古の天皇で、大和朝廷を畿内の地方政権から全国規模の政権へと飛躍させた。
景行天皇(けいこうてんのう 紀元前13年~130年)第12代天皇で、日本古代史の英雄「日本武尊」の実父。九州征伐や東征により、崇神天皇が統一した天下以上の地を大和朝廷の支配下に加える戦いに明け暮れた。(ニコニコ大百科)
日本武命 16歳にして父(景行天皇)から征西事業を任され、九州・中国地方の平定に尽力し、さらにすぐさま東国の平定へ向かい、見事これを達成される。(ニコニコ大百科)
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日帰りで4・9東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~へ
http://kitakamayu.exblog.jp/25504811/
2016-04-11T17:20:00+09:00
2016-04-11T17:24:36+09:00
2016-04-11T17:19:24+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
4月9日、私の故郷(千葉県香取郡東庄町)の氏神様である東大社の神輿が2年に一度、利根川へお浜降りをする「東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~」を見物した。前々回と前回は泊まりがけだったが、今回は事情があって日帰り見物となった。20年に一度、東大社の神輿が外川海岸に神幸する「式年銚子大神幸祭」を「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し、桜井神幸祭は「桜井みゆき」と呼ばれている。
神輿のお浜降りは当然のことながら、午前10時半、開催予定の御産宮の神事は最低限、見物したかった。朝7時に北鎌倉の自宅を出て、午前10時すぎに会場の桜井浜に到着した。余裕で御産宮の神事に間に合った。
「第54回東大社式年銚子大神幸祭」-総(ふさの)国の原風景-出版の際、顔見知りになったCATV 銚子テレビ放送の記者が取材に来ていて声を掛けられた。
「総(ふさの)国の原風景の売れ具合はどうです。20年毎の開催は伝承という点からは年月的に限界なんですね。弥勒三番叟の立烏帽子に「東」の紋復活なんかもその例ですよね。『口伝』ではうまく伝わりませんよ」「確かにその通りですね」。「総(ふさの)国の原風景」を出版した大きな目的は、東大社式年銚子大神幸祭の正当な歴史が改竄されようとする動きを封じるためだった。苦労はしたが「総(ふさの)国の原風景」を出版して良かったとしみじみ思った。
「東」の紋復活:第54回東大社式年銚子大神幸祭
「東」の紋が取り外された第53回東大社式年銚子大神幸祭
<「第54回東大社式年銚子大神幸祭」-総(ふさの)国の原風景-より>
弥勒三番叟の立烏帽子に「東」の紋復活
今回の神幸祭では、歴史の真実を曲げることはできない実例を確認した。弥勒三番叟の供奉者の立烏帽子に、桜花の中に「東」の字を表した紋が復活したのだ。前回の神幸祭にこの紋はなかった。高嶋捷邑東大社常任理事によると「前回、『東』の紋がなかったのは雷神社の役員が、『雷神社の氏子が東大社を意味する『東』の紋は罷りならん』と取り外しを要求したため。しかし、何百年も『東』の紋を付けて芸を演じてきた倉橋地区の氏子の間に『本来、倉橋地区は東大社の氏子で、雷神社の氏子ではなかった。歴史に則って演じるべきで、現在が雷神社の氏子だからといって、取り外す必要はない』と、元に戻そうという機運が高まり、復活した。歴史を重んじる倉橋地区の皆さんの英断に感謝したい」
【資料7】「雷神社(ライジンジャ)由緒」の「東大社・豊玉姫神社が『香取地方の神』であるのに対し、雷神社は御神幸先の銚子を含む地元『うなかみ』地方(香取の一部も海上郡に含まれていた時代があった)の神であるから、倉橋の三番叟を氏子に持つ当社が加わっているのは、他の2社とは別の意味合いがあるようである。尚、三番叟以外にも芸能披露も行われるが、これは東大社の氏子区民によるもので、時代的にも新しく、三番叟とは別の位置付けにあり、同列では考えられない」という記述が、奥歯に物が挟まったような言い方で、何を主張したいのかはっきりしなかった。
しかし、このもやもやは高嶋東大社常任理事の説明と、【資料19】の房総の祭事を読むことで氷解した。房総の祭事は①倉橋地区は、東大社との縁極めて深く、古く氏子であったとの伝えがある②倉橋弥勒三番叟の立烏帽子は、歴史的に「東」の紋を付けていた③弥勒三番叟は途切れそうになったが、倉橋地区の皆さんの伝統芸能再興への熱い思いが結実し、現在に至っている-と書いている。
東大社あっての神幸祭と書いたが、東総地区全体の発展を考えれば、豊玉姫神社と雷神社の協力があっての神幸祭ともいえる。正しい歴史認識に基づき、継続に向けた運用面の工夫を3社には期待したい。「東大社を主軸として豊玉姫・雷神社両輪として一致協力の神事を願っている」という大木銚子雑学塾塾長の願いは、わたしの願いでもある。
【資料19】房総の祭事(千葉県神社庁特殊神事編纂委員会、千葉県神社庁発行)
式年大神幸(おおみゆき・銚子みゆき) 神社名 東大社
弥勒三番叟(伝承地 海上郡海上町倉橋)
二〇年毎に行われる東大社式年銚子大神幸の際、露払として行列の最先頭を進み、これを舞うことによって、沿道を清め、大漁、豊作をもたらすものといわれる。現在(千葉)県指定無形文化財。
倉橋地区は、東大社との縁極めて深く、古く氏子であったと伝え、昭和五年度の大神幸にも、古例によって供奉奉仕した。二五年度は終戦後の事情で、歌舞の奉仕は無く、ただ、代表者が礼装で供奉した。しかしこのままではせっかくの伝統が絶え、今後の式年神幸の奉仕も不可能になる。われわれ経験者の現存中に是非再興しようということで、昭和五年度の奉仕者が発起し、協力一致、しばしば寄り合っては記録を調べ、記憶を呼び起こし、遂に正確な手振りを復元した。
昭和四五年度の大神幸にも、前々回、即ち四〇年前の供奉者が、再び顔を揃えて供奉奉仕し、行く先々で喝采を博した。その後倉橋弥勒三番叟保存会が設けられ、地区在住の概ね一八歳から二五歳までの長男が参加(服喪中は関わらない)、伝統を継承して、熱心に保存発展につとめ、既に二〇余名が演技を修得している。服装は、浄衣袴に立烏帽子(えぼし、桜花の中に東の字を表した紋を付ける)をかぶり、白足袋に草履をはき、御弊と金扇を持つ。楽器は大皮鼓、小皮鼓、摺り鉦を用い、舞士、音頭士等一五名ほどで編成される。
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ダムに沈む?日向(ひなた)の棚田⑤義父の3回忌で長崎へ
http://kitakamayu.exblog.jp/23132527/
2014-11-28T10:28:00+09:00
2014-11-29T07:49:35+09:00
2014-11-28T10:29:11+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
川棚町に泊まったので、川棚町周辺の観光情報をインターネットで調べた。すると宿から車で20分くらいの距離に「日本の棚田百選」認定の日向(ひなた)の棚田(東彼杵郡川棚町木場郷)があった。11月7日、羽田行きの飛行機の離陸までには時間があったので、期待に胸ふくらませて、日向の棚田に向かった。
日向の棚田はわたしの予想を遥かに超えた壮大なスケールで、見る者を圧倒した。山城を連想させる堅牢な石垣の棚田で、その数は1100枚、総面積は26haにもおよぶという。今年は1月に伊豆半島の石部(いしぶ)棚田、4月には千葉・鴨川の大山千枚田を訪れたが、この二つの棚田は一度は耕作放棄され、それをNPOなどが復元して現在に至っている。
これに対し、日向の棚田は、山を切り開いて、石をひとつずつ積み上げて棚田を作ったご先祖に感謝の念を持つ農民が今なお、その棚田で米作りをしている。棚田の水は町のシンボルである「虚空蔵山」(標高608m)の森が育んでいる。
しばし、感動して棚田に見とれていたが、「石木ダム建設絶対反対」の看板が気になった。調べてみたら石木ダム建設事業は、長崎県の公共事業で、治水〔洪水調節(川棚町)〕と利水〔安定取水(川棚町)・新規水源(佐世保市)〕を兼ね備えた多目的ダム計画で、昭和47年に予備調査が始まり、平成28年度の完成を目標にしている。何とも驚くべきことにこの素晴らしい棚田が、ダム建設によって、水底に沈みかねない状況下にある。
石木ダム建設事務所、川棚町、川棚町観光協会の公式HPを読み比べた。不可解きわまりない。また「諫早湾」か、と気が重くなった。
*石木ダム建設事業(石木ダム建設事務所公式HPより転載)
石木ダム建設事業は、川棚川下流域を洪水被害から守り、川棚町に安定した取水をもたらし、慢性的な水不足体質を抱えた佐世保市の水源確保を目的とした多目的ダム建設事業です。平成24年度末における事業の進捗率として、用地の契約率及び家屋移転率が共に8割を超えています。
また、事業認定に係る公聴会が、平成25年3月22日・23日の両日に開かれ、同年9月6日に事業認定の告示がなされました。長崎県では、石木ダムによる治水効果及び、利水効果の受益自治体である川棚町及び、佐世保市と共に、当該事業に同意を得られていない方のご理解を引き続き求めることとしています。
石木ダム建設事務所公式HPよりダウンロードした石木ダム完成イメージ図
*日向の棚田(川棚町公式HPより転載)
「日本の棚田百選」認定!
「美しい日本の村景観コンテスト」受賞!
棚田は、特色ある農業生産の場として生活に寄与しており、地形を巧みに利用し多面的な機能を発揮しております。そこで農林水産省は棚田について、その保全や、保全整備活動を推進し、農業農村に対する理解を深めるため、優れた棚田を認定することとなり、本町もその認定を受けました。また、地域の人々の努力を背景として支えられている日本を代表する農山漁村の美しい景観として平成12年度に全国124件の応募の中から27地域が表彰を受け、本地区は「全国土地改良事業団体連合会長賞」を受賞しました。
毎年10月下旬には棚田だんだん祭り。田舎汁の無料配布、川棚中学校吹奏楽部による「棚田だんだんコンサート」、いのしし(うり坊)レース、棚田写真展、火祭りショー、伝統芸能「木場浮立」披露など、多彩な催し物が行われます。
*日向の棚田(川棚町観光協会公式HPより転載)
「日本の棚田百選」認定!
「美しい日本の村景観コンテスト」受賞!
棚田は、特色ある農業生産の場として生活に寄与しており、地形を巧みに利用し多面的な機能を発揮しております。
そこで農林水産省は棚田について、その保全や、保全整備活動を推進し、農業農村に対する理解を深めるため、優れた棚田を認定することとなり、本町もその認定を受けました。
また、地域の人々の努力を背景として支えられている日本を代表する農山漁村の美しい景観として平成12年度に全国124件の応募の中から27地域が表彰を受け、本地区は「全国土地改良事業団体連合会長賞」を受賞しました。
棚田地域は、日本古来の主食である米の生産供給の場として、先人達の知恵と卓越した技術と共同精神により限られた厳しい自然条件の中にその機構風土、地形形状と調和した農地の築造がなされ、長い歴史を経て今日に至っています。
棚田百選記念碑
農林水産省日本の棚田百選(1999.07.26)
第9回美しい日本のむら景観コンテンスト
全国土地改良事業団体連合会長賞受賞
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鴨川の大山千枚田を見物し北鎌倉へ③東大社桜井神幸祭
http://kitakamayu.exblog.jp/22330298/
2014-07-05T15:59:00+09:00
2014-07-05T16:02:05+09:00
2014-07-05T15:59:36+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
「東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~」が開催された4月12日は実家に泊まった。そして、翌日の13日はかねてから気になっていた大山千枚田を見物して北鎌倉へ帰った。大山千枚田は、千葉県鴨川市大山にある棚田で、面積約4ヘクタールの急傾斜地に、大小375枚の田んぼが階段のように連なっている。房総半島のほぼ真ん中にあり、東京から一番近い棚田として有名だ。
有名な棚田を訪れるのは今年1月に伊豆半島の石部(いしぶ)の棚田以来だ。石部の棚田の現在の規模は4,2ヘクタール、約370枚まで復活したそうだ。大山千枚田と石部の棚田はほぼ同規模ということになるが、見た目には大山千枚田の方がスケールが大きいように感じられた。錯覚だろうか。
棚田に強い関心を持つようになったきっかけは「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」の取材だった。この本の中で、日本武尊の東征伝説に触れたが、東征はある意味では、西で発達した稲作を中心とした食料生産に基礎を置く弥生文化が、東の食料採集に依存する縄文文化を凌駕していく過程ではなかったかと考えている。
4年前に「第54回東大社式年銚子大神幸祭」を取材した際、故郷の人たちは20年毎のこの祭りを見ることで自らの健康と寿命を確認するのだという。過ぎ去った20年はあっという間だ。しかし、これからの20年を考えると長い。次回の「第55回東大社式年銚子大神幸祭」まであと16年。果たして、自分はこの祭りを元気な姿で見ることができるのだろうか。
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里の民と海の民のコラボ夕日が出迎え②東大社桜井神幸祭
http://kitakamayu.exblog.jp/22329826/
2014-07-05T12:34:15+09:00
2014-07-05T12:34:29+09:00
2014-07-05T12:34:29+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
2年前の「東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~」、4年前の20年に一度の
「式年銚子大神幸祭」の時は、お浜降りしてきた神輿は、ものすごい嵐の中を東大社に帰還した。しかし、好天に恵まれた今回は夕日が出迎えてくれた。(今回のお浜降りは4月12日だった。時間が経ってしまったが、記録として残したいので掲載する)
伝説によれば、東大社の祭神の玉依毘売命(タマヨリビメノミコト=海神の娘君・神武天皇御母君)の故郷は銚子市の外川海岸。このため、東大社桜井神幸祭と式年銚子大神幸祭には、「海の民」である銚子市民が、「里の民」である東大社の氏子(=メーンが東庄町の町民)を力強くバックアップする。
法被姿が「海の民」(銚子神輿連合会)で白装束が「里の民」
樹齢1000年を超える東大社の御神木のスギ。東大社の歴史の古さを感じさせてくれる。
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勇壮、華麗に利根川に御輿がお浜降り①東大社桜井神幸祭
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2014-04-16T07:34:00+09:00
2014-07-05T11:07:46+09:00
2014-04-16T07:34:18+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
4月12日、2年に一度、私の故郷(千葉県香取郡東庄町)の氏神様である東大社の神輿が利根川へお浜降りをする「東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~」に参加した。神幸のコースは東大社→御手洗盃の井→敷薦(すくも)塚→桜井御産宮→桜井浜。20年に一度、外川海岸に神幸する「式年銚子大神幸祭」を、「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し、桜井神幸祭は「桜井みゆき」とも呼ばれている。
同日の午前8時すぎに北鎌倉の自宅を出発した。当初は午前5時すぎに出発し、午前9時からの東大社の御輿出発の神事に立ち会う予定だった。しかし、3月末に腸閉塞で入院し、かつ、4月20日に団塊サミットスペシャルin建長寺を控えているため、無理を避けた。
自宅から故郷までの距離は約170キロ。渋滞がなければ車で3時間弱。ルートは大別して2つある。一つは磯子インターで首都高速湾岸線に乗り、東関東自動車道を使い、佐原香取インターチェンジで降りる。
二つ目が東京湾アクアライン(とうきょうわんアクアライン)・東京湾アクアライン連絡道(とうきょうわんアクアラインれんらくどう)経由のルート。神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市から圏央道を利用し、横芝光町で降りる。所要時間は大差ない。車の通行量が少ないので、最近はこちらのルートを使うケースが多い。
一方が交通事故などで渋滞した場合、もう一方を利用できるのでとても便利だった。ところがこの日は両方のルートで交通事故が発生し、渋滞にはまってしまった。最初はアクアラインを選択したが、ほとんど動かない。そこで第1のルートに切り替えた。
桜井浜到着は正午頃になってしまった。このため午前11時すぎに予定されていた桜井御産宮の神事には参加できなかった。飯田篤永東大社宮司に遅れた理由を説明すると、神事に奉納された「神饌」(しんせん、神への供物として用いられる飲食物の総称)の紅白のお菓子をいただいた。桜の花びらの上に東大社を示す「東」の文字が刻まれている。
このお菓子はもともと大秀堂菓子舗 (〒289-0624 千葉県香取郡東庄町小南1019)が作っていたが、店じまいすることになった。それを聞いた東庄町の布施菓子店(〒2890611 千葉県香取郡東庄町新宿815)が「絶対作るのをやめてはいけない」と菓子の版木を譲り受けた。なんかとっても嬉しい話を聞いた。
2年前の桜井神幸祭は嵐の中で挙行された。気温も低く、寒さに震えながらカメラが雨でぬれないように注意して桜井神幸祭の流れを追った。今回は青空が広がり、多くの観客が勇壮かつ華麗な東大社の御輿が利根川に浜降り姿を見守った。観客の中には中学時代の同級生の姿もあった。
氏子のお孫さんたちによる浦安の舞(うらやすのまい)の奉納。 神事舞の一つで、940年(昭和15)の皇紀二千六百年祝典の際に作られたもの。上代の手振りをしのぶ、荘重典雅な女舞。
<「第54回東大社式年銚子大神幸祭」-総(ふさの)国の原風景-より>
【御産宮】「第二の聖地」の浜鳥居は神秘的
桜井の浜は利根川の河岸に沿って広がる。隊列は金幣を奉げ持って御産宮に向かう飯田宮司一行と、浜鳥居を目指す神輿との二手に分かれた。御産宮は水田より一段高くなった方形の小さな林の中にポツンと鎮座している。神輿を担いで入れるほど、水田の畦道は広くないので二手に分かれた。御産宮は可愛らしい石づくりの祠(ほこら)で、祭神は東大社と同じ玉依姫命。鎮座地の階段状の地形は水位の低下によってもたらされ、この地域が利根川と霞ヶ浦等が一体となった「香取の海」の海底であったことを物語る。
桜井の浜は第4章で詳しく紹介しているが、東大社の祭神の上陸地、あるいは生誕地と伝えられている。玉依姫命の夫の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の生誕地との言い伝えもある。さらに、御産宮には子産石(こうみいし)が神宝として祀られていたが、江戸時代に襲来した台風で、社殿が破損されたため、近くの菅原道真公をお祀りする菅原大神に移したというという伝承も存在する。外川海岸を「第一の聖地」とするなら、桜井の浜は「第二の聖地」といっていい。
御産宮での祭典では伝統に従って、地元の崇敬者から蕗(ふき)の黄粉あえと「オモク」(蒸炊した玄米)が捧げられた。蕗の黄粉あえが捧げられる理由は「東庄の郷土史」によると「里伝では、海神の姫がお産のおりに、柔らかい蕗の葉を敷き、そこで座産が行われたとされ、又、蕗は、うがやふきあえずのみことの(名前)から二文字取ったとも伝えられる」
桜井の浜に「聖地」伝説が生まれたのは、地理的な条件にあるようだ。東庄町史には「地元の伝承では東大社の社地は元来、宮本ではなく、青馬にある代大神の社地に鎮座していたと伝える。その前方付近から東方に谷地が解析され、その下流がベキノ川(またはさわら川)となって東流し、諸持から宮原と桜井の境界を流れて利根川に合流する。江戸時代にはこの川の用水は『王子水』と呼ばれていた。御産宮はこの小河川の河口近くの右岸の段丘上に現存する」とある。
御産宮の祭典後、宮司一行は御産宮から500メートル離れた桜井町公園の東南端に建立されている浜鳥居に向かった。宮司の到着を待って神輿は、3度浜鳥居をくぐった。この日以前にも事前取材で何度か浜鳥居を訪れていたが、実に神秘的である。玉依姫命の実家である“竜宮城”への入口ではないかとの妄想に駆られる。利根川の水をたっぷり含んだ空気のせいなのだろうか。水中にいるような錯覚を覚える。この桜井の浜には2年に一度、東大社の神輿だけの神幸がある。式年銚子大神幸祭を「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し「桜井みゆき」と呼ぶ。
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4・12東大社桜井神幸祭、桜井浜へのお浜降りは13時半過ぎ
http://kitakamayu.exblog.jp/21825807/
2014-03-14T08:28:00+09:00
2014-03-14T08:31:59+09:00
2014-03-14T08:28:23+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
「東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~」は、2年に一度、私の故郷(千葉県香取郡東庄町)の氏神様である東大社の神輿が利根川へお浜降りをする祭事だ。20年に一度、外川海岸に神幸する「式年銚子大神幸祭」を、「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し「桜井みゆき」とも呼ばれている。神輿が実際に利根川へお浜降りをする時間は、予定では午後1時半過ぎ。
「東大社桜井神幸祭~桜井浜のお浜降り~」
日時:2014年4月12日※雨天決行
東大社神事 9:00~9:30
桜井浜のお浜降り 13:00~15:30
場 所:東大社、桜井町公園(銚子市)
問合せ先:東大社 0478-86-4405
2014年3月10日撮影した東大社。本殿右側に植えられた橘の樹の枝には実がたくさん生っていた。
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石部の棚田:館山寺・堂ケ島温泉への小さな旅【最終回】
http://kitakamayu.exblog.jp/21623078/
2014-02-07T08:39:00+09:00
2014-02-07T08:43:44+09:00
2014-02-07T08:39:10+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
小さな旅の最終日となる1月16日は南伊豆、東伊豆を経由して北鎌倉に帰ることにした。好天に恵まれ富士山の勇姿も眺めることができ、松崎町で前日泊まったニュー銀水と一緒に写真に収めた。
それから少し車を走らせると石部(いしぶ)の棚田の標識が目に入った。旅に出ると必ずその地域の中心となっている寺社を参拝することしにしている。寺社を参拝するとその地域の歴史、成り立ちがよく分かるからだ。寺社以外では棚田に必ず立ち寄る。
棚田に強い関心を持つようになったきっかけは「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」の取材だった。この本の中で、日本武尊の東征伝説に触れたが、東征はある意味では、西で発達した稲作を中心とした食料生産に基礎を置く弥生文化が、東の食料採集に依存する縄文文化を凌駕していく過程ではなかったかと考えている。
東大社式年銚子大神幸祭の芸能の供奉は、東大社の氏子の東大社への感謝の表現である。東大社の豊かな森が湧水を育み、氏子の水田を潤している。氏子の水田にも棚田がある。棚田は平坦地の水田に比べて田んぼづくりだけでなく稲の栽培に関しても大変な労力を必要とする。先人の汗と涙の結晶が棚田なのだと考えると感動を覚える。
東大社式年銚子大神幸祭番外編⑥蕨野の棚田(佐賀県)
http://kitakamayu.exblog.jp/14699806/
駿河湾を望む山の斜面に広がる石部の棚田は、この地域で産出される石を使用して造成された東日本では珍しい石積みの棚田だった。かつては約10ヘクタール、棚田の枚数は約1000枚あったそうだが、耕作放棄が進んだ。その後、棚田を復活させる活動がスタートし、現在の規模は4,2ヘクタール、約370枚まで復活した。小さな旅の最後にとても素晴らしい風景に巡りあえた。上々の気分で石部の棚田を後にして北鎌倉へ向かった。
なんとこの肉厚の生シイタケのお値段が500円で売られていた!
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「平成26年東大社桜井神幸祭」の開催日は4月12日に決定
http://kitakamayu.exblog.jp/21606814/
2014-02-04T15:17:00+09:00
2014-02-04T17:42:46+09:00
2014-02-04T15:18:04+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
境内に東庄町の無形文化財に指定の案内板
「平成24年東大社桜井神幸祭」(2012・4・14)
2月3日、日帰りで千葉県香取郡東庄町に帰省した。間もなく91歳の誕生日を迎える母のご機嫌伺いと、大利根用水の父、野口初太郎頌徳碑・建立地である大利根用水旧笹川揚水機場跡地に植えた河津桜と玉縄桜に肥料を与えるためだった。
北鎌倉の自宅に帰る前、いつものように参拝のために氏神様の東大社に立ち寄った。節分祭が開催されるということで、東大社周辺の道路にはたくさんの車が駐車してあり、普段は森閑としている境内が大勢の人で賑わいを見せ、本殿では飯田篤永東大社宮司が関係者と一緒に節分祭の神事を執り行っていた。
人間関係が希薄化する時代の中で、季節ごとに目的を持って地域の人たちが集まる「核となる場」=「東大社」が故郷にあるのは素晴らしいことだと思う。わたしが東大社に到着した時間は午後2時ごろ。豆まき予定時間は午後2時50分になっていた。豆まきを見たかったが、帰宅が遅くなるので断念した。
帰る前に顔見知りの東大社の役員に挨拶したら、今年の東大社桜井神幸祭の開催日が4月12日(土)に決まったことを教えてくれた。2年に一度、利根川の桜井浜に東大社の神輿が神幸する「東大社桜井神幸祭」は、20年に一度、外川海岸に神幸する「式年銚子大神幸祭」を、おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し「桜井みゆき」とも呼ばれている。
さらにこの役員は、境内に「東大社式年銚子大神幸祭」が東庄町の無形文化財に指定されたことを伝える案内板が今年1月に設置されたことも教えてくれた。東庄町の無形文化財の指定は平成10年の「第54回東大社式年銚子大神幸祭」開催直後。歴史的な意味を広く町内外に伝えることは、正しい歴史の伝承に基づいた「東大社式年銚子大神幸祭」の継続にとって大きな意味を持つ。
東大社式年銚子大神幸祭が東総地区最大級の例大祭であることを考えれば、東庄町の無形文化財の指定は当然の措置だ。「東大社式年銚子大神幸祭」の時の東大社、豊玉姫神社、雷神社の三社神輿渡御の前駆露払い的な意味合いも持つ弥勒三番叟が千葉県指定無形文化財となっている。個人的には“本体”の「東大社式年銚子大神幸祭」が千葉県の無形文化財に指定されることを望んでいる。
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三内丸山遺跡と椿館(浅虫温泉):永平寺から白神山地へ⑧
http://kitakamayu.exblog.jp/20579133/
2013-08-03T06:51:00+09:00
2013-08-03T07:07:41+09:00
2013-08-03T06:50:58+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
5月11日、永平寺から白神山地への7泊8日の旅は5日目となり、後半戦入りした。この日は当初は、白神山地の十二湖から「白神ライン」を使って、弘前市に出て、浅虫温泉の棟方志功ゆかりの宿・椿館(青森県青森市浅虫字内野14 TEL.0120-8102-15 FAX.017-752-3483)に宿泊しようと考えていた。
もし、時間があれば日本最大級の縄文集落跡三内丸山遺跡に立ち寄るつもりだった。三内丸山遺跡に興味を持ったきっかけは、2010年の「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」の出版だった。
「日本武尊の東征伝説」に彩られた東大社式年銚子大神幸祭は、里の民と海の民が手を携えながら900年以上も守り続けてきた千葉県東総地区の最大級の例祭で、縄文と弥生のせめぎ合いの名残という要素が強い。
私の出身地の千葉県は温暖な気候、豊かな海と森に恵まれたため縄文時代の象徴である貝塚の宝庫だ。実家の氏神様の東大社の近くにも国指定史跡の良文(よしぶみ)貝塚がある。ということで機会があれば 三内丸山遺跡を訪れたいとかねてから思っていた。
何が幸いするか分からない。「白神ライン」が通行止めだったため、予定より早めに青森市内に到着できた。お陰で三内丸山遺跡もじっくり見学できた。縄文時代を再認識できてとても良かった。ただ、もっと鄙びた遺跡だと思っていたが、想像以上にきれいに復元されていた。ちょっぴり、拍子抜けした。
この日の宿の椿館は、青森に生まれ世界の板画家となった棟方志功が昭和16年頃より毎年夏に家族で逗留し、多くの作品を描き残した場所だ。温泉と食事は申し分なかった。特に夕食に出たウニ尽くし(生ウニ、蒸しウニ、焼きウニ)は感動ものだった。椿館へのお願いが一つある。洗面所、トイレの水周りへの配慮だ。
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飯田篤永東大社宮司のお宅の庭の実に見事なヒバに感嘆
http://kitakamayu.exblog.jp/18074373/
2012-06-09T10:55:00+09:00
2012-06-09T10:58:58+09:00
2012-06-08T10:50:48+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
6月4日、ネギの苗をいただきに飯田篤永東大社宮司のお宅に伺った際、初めて奥の庭を見せてもらった。築200年の母屋から庭を眺めたが、手入れの行き届いたヒバの巨木に目を見張った。
北鎌倉の禅寺もいいが、こちらの庭も素晴らしい。この日は夏を思わせるように日差しが強かったが、庭から涼やかな風が母屋の中に吹いてきて、しばし、至福の時を過ごさせてもらった。
ヒバ(http://www.niceliving.net/kinitsuite/hiba.htmlより転載)
針葉樹 ヒノキ科
北海道南部から四国、九州にかけて分布。天然林は青森ヒバが有名。造林産地は能登など一部。ヒノキアスナロ、アテ、アスナロの総称。常緑高木で、樹高は20~30m。鱗状の葉の形がヒノキに似ているが、大型なので見分けやすい。灰褐色の樹皮が、薄く長く剥がれ落ちる。花期は5月。輪人材のベイヒバとは別種。
多湿な気候に負けない、シロアリに強い木
湿気に強く、耐蝕性はヒノキ以上
ヒバといえば、天然林の青森ヒバが有名ですが、これは北海道から東北地方に見られるヒノキアスナロという日本特産の樹種に当たり、能登地方で植林されているアテと同種です。そしてもうひとつヒバと称されるのが、本州から九州にかけて見られるアスナロで、建築材に使用されるのはヒノキアスナロの方。東京方面で手に入るのは青森ヒバが多く、関西では能登ヒバ(能登アテ)が多いようです。
ヒバの特長は、第一に虫や木材腐朽菌に強いこと。昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれ、特に白蟻に対する強さは他の樹種には見られないほどです。これは防蟻に有効な成分を含んでいるためで、ヒバは殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多いのです。腐りにくく、耐水性があって湿気にも強い、強度もヒノキと同等という特性を活かして、土台や柱、軒廻り、浴室、濡縁、ベランダなどに用いられます。また、特有の強い香りがあります。
ヒバの価格はヒノキとほぼ同額です。能登ヒバのうち、クサアテと呼ばれる素直な材は柱やフローリングに、樹液を含む重いカナアテは土台に利用されます。ねじれや収縮については人工乾燥によって克服。都市部に向けた製品づくりを行なっています。
表の庭
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2年に一度の東大社桜井神幸祭、嵐ついて挙行:12・4・14
http://kitakamayu.exblog.jp/17949370/
2012-05-13T17:17:00+09:00
2012-05-13T20:33:42+09:00
2012-05-11T19:05:00+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
私の故郷(千葉県香取郡東庄町)の氏神様である東大社の「平成24年東大社桜井神幸祭」が4月14日、暴風雨をついて開催された。神幸のコースは東大社→御手洗盃の井→敷薦(すくも)塚→桜井御産宮→桜井浜で、桜井御産宮と桜井浜のある「桜井地区」の所在は現在、銚子市だ。桜井浜には東大社の神輿は、2年に一度神幸している。20年に一度、外川海岸に神幸する「式年銚子大神幸祭」を、「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し「桜井みゆき」と呼んでいる。
「『式年銚子大神幸祭』の天気は荒れる」というジンクスがあるが、2010 年4月に開催された「第54回東大社式年銚子大神幸祭」の最終日は、大荒れの天気となった。このジンクスは今回の「桜井みゆき」にもしっかりと生きていた。2年前の「式年銚子大神幸祭」の最終日も強い雨、強風に見舞われた。2年前は凍えるような寒さだったが、今回は幸い、寒くはなかった。
2年前の「式年銚子大神幸祭」、今回の「桜井みゆき」を見るのはいずれも初めてだった。おぼろげながら自らの「出自」を理解できたような気がする。とても貴重な体験ができた。今は安堵感のようなものを覚えている。
東大社(出御)
御手洗盃の井
桜井御産宮
桜井浜
東大社(還御)
<「第54回東大社式年銚子大神幸祭」-総(ふさの)国の原風景-より>
【御手洗盃の井】金幣と神輿を井戸水でお清め
最初の神事は東庄七井の一つ、御手洗盃の井で開催された。大鳥居から出てすぐの左前方にある。神の霊が一時的に宿る金幣を井戸の傍らに安置し、榊の枝に紙垂(しで)を付けた大麻(おおぬさ)を井戸の水で濡らし、この水を金幣と道路に待機していた神輿に注いで清めた。これがオーソドックな禊ぎの方法という。
【敷薦塚】お祓いのみ、神輿立ち寄らず
敷薦塚は東大社の東、約500メートルの畑の中にある円墳。宮本古墳群の一つで、往古にはこの場所に二の鳥居があったことや、道に菰を敷き、神輿を迎えたことなどが伝えられている。現在は、神職がお祓いをし、ここに大麻を立てるのみで、神輿は立ち寄らない。
【御産宮】「第二の聖地」の浜鳥居は神秘的
桜井の浜は利根川の河岸に沿って広がる。隊列は金幣を奉げ持って御産宮に向かう飯田宮司一行と、浜鳥居を目指す神輿との二手に分かれた。御産宮は水田より一段高くなった方形の小さな林の中にポツンと鎮座している。神輿を担いで入れるほど、水田の畦道は広くないので二手に分かれた。御産宮は可愛らしい石づくりの祠(ほこら)で、祭神は東大社と同じ玉依姫命。鎮座地の階段状の地形は水位の低下によってもたらされ、この地域が利根川と霞ヶ浦等が一体となった「香取の海」の海底であったことを物語る。
桜井の浜は第4章で詳しく紹介しているが、東大社の祭神の上陸地、あるいは生誕地と伝えられている。玉依姫命の夫の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の生誕地との言い伝えもある。さらに、御産宮には子産石(こうみいし)が神宝として祀られていたが、江戸時代に襲来した台風で、社殿が破損されたため、近くの菅原道真公をお祀りする菅原大神に移したというという伝承も存在する。外川海岸を「第一の聖地」とするなら、桜井の浜は「第二の聖地」といっていい。
御産宮での祭典では伝統に従って、地元の崇敬者から蕗(ふき)の黄粉あえと「オモク」(蒸炊した玄米)が捧げられた。蕗の黄粉あえが捧げられる理由は「東庄の郷土史」によると「里伝では、海神の姫がお産のおりに、柔らかい蕗の葉を敷き、そこで座産が行われたとされ、又、蕗は、うがやふきあえずのみことの(名前)から二文字取ったとも伝えられる」
桜井の浜に「聖地」伝説が生まれたのは、地理的な条件にあるようだ。東庄町史には「地元の伝承では東大社の社地は元来、宮本ではなく、青馬にある代大神の社地に鎮座していたと伝える。その前方付近から東方に谷地が解析され、その下流がベキノ川(またはさわら川)となって東流し、諸持から宮原と桜井の境界を流れて利根川に合流する。江戸時代にはこの川の用水は『王子水』と呼ばれていた。御産宮はこの小河川の河口近くの右岸の段丘上に現存する」とある。
御産宮の祭典後、宮司一行は御産宮から500メートル離れた桜井町公園の東南端に建立されている浜鳥居に向かった。宮司の到着を待って神輿は、3度浜鳥居をくぐった。この日以前にも事前取材で何度か浜鳥居を訪れていたが、実に神秘的である。玉依姫命の実家である“竜宮城”への入口ではないかとの妄想に駆られる。利根川の水をたっぷり含んだ空気のせいなのだろうか。水中にいるような錯覚を覚える。この桜井の浜には2年に一度、東大社の神輿だけの神幸がある。式年銚子大神幸祭を「おおみゆき」「銚子みゆき」と呼ぶのに対し「桜井みゆき」と呼ぶ。
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東大社の綿津見神への報賽・海上安全・大漁満足の祭典
http://kitakamayu.exblog.jp/17650832/
2012-03-12T18:03:00+09:00
2012-03-12T20:49:34+09:00
2012-03-12T18:05:06+09:00
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式年東大社銚子御神幸祭
東日本大震災から1年を迎えた3月11日、銚子市外川漁港でわが故郷(千葉県香取郡東庄町)の氏神様の東大社による*綿津見神への報賽(ほうさい。お礼参り)・海上安全・大漁満足の祭典が行われた。祭典には東大社と縁が深く、外川地区の氏神様の渡海神社が協力し、漁業関係者を中心に約100人が参列した。
この祭典は東大社の飯田篤永宮司の「昨年は東日本大震災が、各地に大きな被害を与えたが、銚子大神幸祭のメーン会場となった銚子市の外川海岸だけは、被害を免れてほとんど無傷に近い状態だった。これは偏に、1昨年の第54回東大社式年銚子大神幸祭(http://www.kitakama-yusui.net/7/7fusano.html)による御神徳(神の功徳)の賜と固く信じて疑わない。お願いだけでなく、お礼の祭典を行いたい」との強い思いで実現した。
祭典会場の外川漁港には、JR北鎌倉から、横須賀線、成田線、銚子電鉄を乗り継ぎ、約4時間かけて到着した。参列者によれば、お隣の銚子マリーナや飯岡(千葉県旭市)、波崎(茨城県)が津波で大きな被害を受けたのに、東大社の神輿が神幸した外川地区はシラウオ漁の漁船2隻にとどまったという。これは奇跡としか言いようがない。
*綿津見神【わたつみのかみ】=デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
「古事記」にみえる神。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美(いざなみの)命の間に生まれた,底津綿津見,中津綿津見,上津綿津見の3神。海をつかさどり,海人族により信仰された。「日本書紀」では少童命(わたつみのみこと)。
外川漁港には多くの漁船が係留されていた。その中に第54回東大社式年銚子大神幸祭の時に東大社の依代(金幣)を乗せて、洋上と御した佐藤丸の姿もあった。
【第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさ)の国の原風景-より】
撮影:野口 玲
さてそのお浜降りの神事だが、昭和45(1970)年に開催された第52回神幸祭までは、砂浜で祭典を行った後、神輿を担いで海に入り直接、ご神体の禊ぎをした。しかし、昭和50年代初めに砂浜は埋め立てられ、護岸堤防が築かれてしまい、神輿は直接、海に入れなくなった。このため、前回から漁船に依代(金幣や御神体)を乗せ、護岸堤防の先にある外洋に出て、船上で潮を汲み、依代に注ぐ方法に変更された。だだし、前回は猛烈な強風で外洋に出ることが出来ず、外川漁港内の岸壁に係留した漁船上で禊ぎを行った。従って外洋上での禊ぎは、今回が史上初めてだ。
外川支所横での祭典が終了した午前10時半過ぎ、大観衆に見守られて、外川漁港から先導船(田辺丸)と護衛船(三浦丸)にはさまれるような格好で、依代と神官らを乗せた雷神社(第5伊東丸)、豊玉姫神社(清勝丸)、東大社(佐藤丸)が出港した。太陽も顔をのぞかせ、波静かな船出だった。しかし、護岸堤防から外洋に出た瞬間、海はその表情を一変し、自然の脅威をむき出しにして、浪切旗を掲げた佐藤丸に襲いかかった。上下左右、木の葉のように揺れた。手すりにつかまらないと振り落とされてしまう。濃い海霧で視界が遮られ、肉眼で確認できるのは、海とすぐ前を航行する清勝丸のみ。「浪切旗は古来最も神聖視され、これを棒じて進むところ、海水も自ら裂けて、神輿のために道を開くといわれる」という言い伝えがあるそうだが、とてもそういう状況にはなかった。
佐藤丸が到着した禊ぎの場所は、テトラポット(消波ブロック)を積み重ねた離岸堤防の少し先の沖合だった。陸からの距離は約200メートル。位置的には大杉神社の真下に当たり、この後に開催された山口家によるお潮汲み神事の場所の延長線上にあった。10時40分、船上に張られた結界の中で、禊ぎの儀式がスタートした。飯田宮司が海に転落しないよう、懸命に足を踏ん張って祝詞を奏上した。白丁が宮司を後ろで必死に支えた。続いて桶と柄杓にお払いをし、海にお神酒とコメを捧げた。その後、白丁が柄杓を巧みに操って潮を汲み上げ、この潮を依代の金幣に3回注いだ。11時5分、禊ぎは無事に終了した。10分後、佐藤丸は漁港に帰還した。大観衆が手を振って出迎えてくれた。護岸提の内は、出港時と同じように波静かだった。
短い時間だったが、海が持つ「恵み」と「破壊」の二面性を体験した。海の民は海の二面性を熟知しているから里の民より、はるかに信心深い。この信心深さが銚子市民のオウジン様に対する熱烈歓迎につながっている。9日に神幸祭のコースの下見をした際、浜降り神事の一部始終を見渡せる外川支所の2階事務所が、絶好の撮影ポイントであることを発見した。銚子漁業協同組合総務部の櫻田正美課長に「2階事務所を撮影場所として使用させてほしい」とお願いした。その答えは「『お神輿を上から見てもいいよ』と漁協の人間の口から言うことはできません」。理不尽なお願いをしてしまった。自らの不明を恥じた。
祭典後*に直会(なおらい)が開催された。
*直会 祭儀の後に、神前に供えた「熟饌(じゅくせん、神前に供える加工した食料や飲料)」をそのまま、もしくは「生饌(せいせん、生のまま神前に供える食料や飲料)」を調理したものを、参会者が会して宴を催していただくことを直会といいます。直会とは「なおりあい」のことで、葬儀を終えた各人が、各々の生活に「なおる」ためのひとつの儀式という説もありますが、この「直会」が神の供物のおさがりを頂戴し、神に近づこう、神と融合しようと願う厳粛な行事であることは間違いありません。(「神道の本」学研)
さすが漁業基地の銚子。タイ、ヒラメ、マグロ、タコの刺身は抜群に美味しかった! ]]>
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