|
カテゴリ
全体
プロフィール 会則 速報 講演・寄稿・メディア シリーズ・団塊世代 春夏秋冬 レヴィン文化財プロジェクト 無名人からの伝言 式年東大社銚子御神幸祭 鎌倉の美しい里山継承PJ シリーズ「里山ってなんだ!」 東庄と鎌倉 鎌倉の世界遺産登録 ガイドブック・プロジェクト 東日本大震災 鎌倉団塊プロジェクト 団塊探偵団(神奈川新聞) 唯我独尊(コラム) 現代に生きる禅の精神 野口農園 交遊録 台峯&マンション問題 インターネット新聞JANJAN Yahoo!セカンドライフ 大船観音前マンション建設 洞門山宅地開発問題 北鎌倉テニスコート築造問題 北鎌倉の恵みプロジェクト 個性派ショップの優れもの BOOK mixi入口 イベント案内 北鎌倉匠の市・展 イベント月別一覧 リンク 北鎌倉グルメ散策 北鎌倉でお買い物 男の料理教室 璃史写真館(非公開) 発見!体験!もう一つの鎌倉 六国見山日照権伐採 「元治苑」にマンション建設 璃史&七緒(非公開) 未分類 以前の記事
2012年 05月
2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 お気に入りブログ
最新のコメント
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
大利根用水の父、野口初太郎頌徳碑・建立地に玉縄桜植樹 2月12日、大利根用水の父・野口初太郎翁頌徳碑建立地(千葉県東庄町笹川の大利根用水旧笹川揚水機場跡地)を訪れた。訪問の目的は、植樹した河津桜に肥料を与えるためだったが、もう一つ、用事があった。それはこの場所に昨年12月5日に植えた2本の玉縄桜の生育状況の確認だ。2本ともしっかりと根付いていた。 ![]() 一本を碑建立地内の車道近くに植えた。車が方向転換するときに、バックした際、誤って、引き倒す危険性をはらんでいると思い、レヴィンのお父さんに“車止め”の設置をお願いしてあった。玉縄桜の前には、がっちりとした“車止め”が構築されていた。 ![]() ![]() 植樹した玉縄桜は、玉縄桜を増やし、広めるために設立された「玉縄桜をひろめる会」から寄贈してもらった大切な苗木である。歴史で結ばれた東庄町と鎌倉の“絆”の象徴となるよう、成長してくれることを願って植えた。 “車止め”を構築してもらった玉縄桜のすぐ傍に、車のタイヤ跡がくっきりと残っていた。「もし、“車止め”がなかったら、どうなんていたか…」と思って、内心ひやりとした。レヴィンのお父さん、多忙な毎日なのに、時間を割いていただき、本当にありがとうございました。 ![]() ![]()
カテゴリに「東庄と鎌倉」を新設(2012年1月15日) ![]() 過ぎ去った歴史のことで「たら‐れば」の話しをしてもせんかたない。しかし、もし、源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島へ流罪にならなければ、わが故郷の東庄町(千葉県香取郡)と鎌倉の関係も別のものとなっていただろう。伊豆国の*蛭ヶ小島は、現在の静岡県伊豆の国市であるとされている。伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩10分の距離にある同市蛭ヶ島公園内には頼朝・政子夫妻の像が作られている。 *源頼朝の流刑地として知られる。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明(ウィキペディア・フリー百科事典) これまで、何度も蛭ヶ島公園近くを車で走っていたが、1月9日、ようやく頼朝・政子夫妻の像に対面した。実を言うとお恥ずかしい話しだが、歴史に疎いので、蛭ヶ小島は流罪の連想から、離れ小島のような場所を考えていた。実際の蛭ヶ島公園はのどかな田園地帯に立地していた。蛭が多かったことから付いた名といわれている。ウィキペディア・フリー百科事典によれば「平安時代の蛭ヶ島一帯は水田で、水田の多い湿地帯のなかに島状にある微高地であると考えられる」 ![]() ![]() ![]() 律令制で刑罰を定めた法律によると、流罪は政治犯などの重罪人を遠くの国や島に追放したもの。配流地によって3段階に分かれ、伊豆国(静岡県)・安房国(千葉県)・隠岐国(島根県)・土佐国(高知県)・佐渡国(新潟県)などが遠流、信濃国(長野県)・伊予国(愛媛県)などが中流、越前国(新潟県)・安芸国(広島県)などが近流となっていた。配流者に妻や妾がいる場合は同伴を許されていた。 1159年(平治元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の命乞いで、伊豆国(蛭ヶ小島)への流罪となった。この地で約20年間を過ごし、1180年(治承4年)、源氏再興の兵を挙げる。 伊豆の流人 (ウィキペディア・フリー百科事典) 伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。流人とはいえ、乳母の比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている。なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承2年(1178年)頃のことであると推定されている。 (ウィキペディア・フリー百科事典) 源頼朝(「鎌倉の観光ポータルサイト」カテゴリ「鎌倉の歴史上の主な人物」より) 源頼朝(1147~1199)は、初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町辺りで誕生、北条政子の夫。母は熱田神宮宮司藤原季範の娘。頼朝の幼名は「鬼武者」。義朝の三男として生まれたが源氏の嫡流として育てられた(母が正室の子であった為)。平治の乱に敗れた父・義朝は鎌倉に落ち延びる途中で殺され、頼朝は捕らえられ、伊豆の蛭ヶ小島に島流しとなった。そんな中で、伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結婚。 治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートをきった。木曽の従兄弟・木曾義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。建久三年(1192)に征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。建久10年(1199)正月13日に落馬がもとで亡くなる。頼朝が亡くなった後は、源氏の運命は悲惨なものであった。政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの政治から遠ざけられ、最後には非業の死を遂げた。その後の政治を継いだのは、政子とその一族の北条氏であった。 結局、頼朝が長い雌伏の後に築き上げた源氏の幕府は、三代でその幕を閉じたのである。鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行して、武士の棟梁でありながらその真面目さはまさに偉大な政治家でもあった。 2012年1月15日、カテゴリに「東庄と鎌倉」を新設した。わが故郷・千葉県東庄町と鎌倉は歴史で強く結びついている。そういうこともあり、昨年12月、下記の企画をした。目的は、両地域が交流を深めることで、故郷と今住んでいる鎌倉がさらなる発展をするためだ。そのためのデータを提供したい。クール百音Specialコンサートin東庄大成功!①一報 http://kitakamayu.exblog.jp/17173054/ クール百音Specialコンサートin東庄大成功!⑥東庄と鎌倉 http://kitakamayu.exblog.jp/17206175 *以下は「千葉氏探訪 房総を駆け抜けた武士たち」(千葉日報社)からの転載資料です。 *千葉常胤 千葉常胤は頼朝が海路安房到着の報にいち早く呼応し、下総国府で参会したとき、頼朝に「常胤は第二の父である」といはしめるほど絶大な信頼を得ました。鎌倉に幕府を開くことを進言したのも常胤とされ、鎌倉幕府創設や基盤の確立に千葉常胤はじめ、房総武士団が大きな役割を果たしました。また、数々の功績により千葉一族は東北から九州に至る広大な所領を有し、政治・経済・文化にも新たな風を吹き込み、いわば“地方の時代”の先駆けとなりました。(「千葉氏探訪発刊によせて 千葉氏顕彰会会長 千葉 滋胤」) *東胤頼 (千葉常胤の)六男は東六郎大夫胤頼といい、現在の小見川町から東庄町、銚子市周辺を領地としていました。彼は中央政府と緊密な関係にあり、兄弟の中で一番出世しました。文武両道に秀で、紳士的なイメージを感じさせます。「大夫」の名のとおり「従五位下(天皇に会見できる官位)」の官位を授与されています。また、早くから京都・神護寺の再興に尽くした文覚と親交を持ち、後白河上皇の妹・上西門院に仕えています。また、胤頼は、文覚の妹を妻にしたという説もあります。 頼朝とも親交が深く、三浦義澄と共に源氏の挙兵をすすめました。源平合戦や奥州藤原氏の追討に尽力し、その恩賞として、下総国海上郡一帯、陸奥国(一説には陸奥国黒川郡)を所領として与えられます。 その孫、胤行に至り、美濃国郡上郡を加領されます。胤頼の晩年は、「国宝法然上人絵伝」に描かれているとおり、念仏行者として過ごし、しかも法然上人の側近くまでいた重要な人物であることが分かります。 彼は文芸にも秀でていたようで、その影響もあって子の重胤は和歌に優れ、鎌倉幕府三代将軍・実朝の深い信任を得ます。孫の胤行にいたっては、藤原定家の孫娘を妻に迎え、幕府最初の右筆(書記官)に任ぜられます。 *吾妻鏡 1180年(治承四年、庚子) 6月27日 戊申 三浦の次郎義澄(義明二男)・千葉の六郎大夫胤頼(常胤六男)等北條に参向す。日来京都に祇侯す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。
玉縄桜、クール百音と一緒に千葉県の東庄町へ ![]() 12月5日、大利根用水の父、野口初太郎頌徳碑・建立地である大利根用水旧笹川揚水機場跡地に玉縄桜の苗を2本、植樹してきた。玉縄桜を増やし、広めるために設立された「玉縄桜をひろめる会」から寄贈してもらった。歴史で結ばれた東庄町と鎌倉の“絆”の象徴となるよう、成長してくれることを願っている。![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 夢工房の片桐務さんに植樹を手伝ったもらった。 ![]() < 前のページ次のページ >
|