北鎌倉湧水ネットワーク:BOOK
2022-10-13T10:59:46+09:00
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お宝情報満載!「ガイドブックに載らない北鎌倉の神々」(夢工房)
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「里山再生は究極のSDGs」出版に向け準備着々10・13
http://kitakamayu.exblog.jp/32782779/
2022-10-13T10:35:00+09:00
2022-10-13T10:59:46+09:00
2022-10-13T10:22:42+09:00
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BOOK
来年5月のブックレット「六国見山に刻んだ22年間の活動足跡 里山再生は究極のSDGs」の出版に向けた準備を着々と進めている。自費出版で、予算は30万円。B5判、約160ページ、オールフルカラー印刷、初版発行予定部数500部。出版社に頼むと多分、300万円以上かかるので、写真家島村國治さんに協力してもらって編集は北鎌倉湧水ネットワークが行い、印刷をプリントパックに依頼する予定だ。畑ランチ500円、鎌人いち場、逗子中庭カフェなどでの野菜の販売などでコツコツ資金を集めている。
本来なら2020年に北鎌倉湧水ネットワークの設立20周年記念行事の一環として、イベントとのセットでブックレットの出版を考えていた。しかし、新型コロナ感染拡大によりイベントは幻になってしまった。過去の事例に鑑みて活動記録を残すことは極めて重要である。2022年5月、六国見山に苗木77本植樹した。これで里山再生活を始めて以来の累積植樹本数が1032本となり、目標だった1000本を達成した。ブックレットは設立20周年記念出版とはならなかったが、設立30周年を迎える2030年をにらんだ一つの区切りとして出版することにした。
【里山再生は究極のSDGsコンテンツ】はじめに 目次第1章 地ビール「北鎌倉恵み」誕生NPOと企業の異例のコラボ 里山六国見山の歴史 始まりの舞台は台峯緑地 「里山的実質保全」 お披露目は北鎌倉匠の市 分散型市民運動の提唱と実践 横浜ビールと円満にお別れ会 新コラボ相手にサンクトガーレン 匠の市終了に緑の洞門の影 喫茶店兼酒房「侘助」第2章 団塊世代の地域デビューを支援第1回団塊サミットin建長寺 神奈川新聞「団塊探偵団」 官民協働の鎌倉団塊プロジェクト発足 地域デビューの心得7か条 レヴィン文化財プロジェクト SNSおとな愉快団!と地域間交流 ガイドブックに載らない北鎌倉の神々 団塊サミットSP あれから10年、これから10年第3章 鎌倉の美しい里山継承プロジェクト田舎サミット機に再挑戦 防災前面に “連判状”提出 回答が10日後のスピード決済 かっちゃんとの約束 木の伐採は不可、建物を動かせ 一点突破全面展開 予想上回るボサッコ進行 アズマネザサの厚い壁 アオキを伐採で外来種が入る? 将来は混交林で三者が一致 シンボルツリー夫婦桜出現 夫婦桜の樹齢は推定100年以上 さくら功労者表彰とパワースポット選定 積極的に多様な広報活動展開 山野草続々復活―生物多様性の実現Ⅰ 野鳥次々に飛来―生物多様性の実現Ⅱ 富士山、スカイツリー、ランドマークタワー―景観向上Ⅰ 男体山などの霊峰礼賛―景観向上Ⅱ 北鎌倉さとやま連合会発足 公園外にも活動フィールド拡大 苗木植樹本数1000本達成 安全対策に注力 見通し調査と植栽木の成長量調査 新型コロナ感染拡大と止まらないナラ枯れ 人と自然の共生の場に復活第4章 活動を貫く循環の思想利根川の始まりは大水上山の氷の塊 「無名人からの伝言 おわりに」 「故郷バージョン」の第2弾 循環農法との運命的な出会い 赤峰勝人著「ニンジンから宇宙へ よみがえる母なる大地」 苗木の樹種は一貫して落葉広葉樹 魚つき林と竹炭専門店「鎌倉すざく」 里山再生とゴミの削減一体化に挑戦 間伐材が炭になって帰還 カマクラキコリスとラムガ 循環資源活用型農業にGO! 渡り鳥のピィちゃんと循環農法再読 「循環農法」 SDGsフォトコンテスト2年連続入賞第5章 活動資金は自力と他力【自力編】「北鎌倉の神々」“臨時書店” 北鎌倉匠の市 円覚寺境内 カジュ祭 かまくら市民活動の日フェスティバル 鎌人いち場 石田泰尚・山本裕康デュオ・リサイタルin建長寺 講演料を活動資金に充当 六国見山産野菜が大奮闘 小さなマルシェ「山の恵みに乾杯!」 逗子中庭カフェ 好評の畑ランチ500円 【他力編】「第3回パートナーシップ大賞」 第1回ぶらっと賞 NPO支援かまくらファンド 「かながわトラストみどり財団」の活動支援事業 緑の募金公募事業(ふるさとの森林再生事業)に 森林・山村多面的機能発揮対策交付金 関東・水と緑のネットワーク新拠点 「山の森・海の森づくり助成」 神奈川県森林協会の森林づくり支援金 個人の寄付第6章 次世代への継承あとから来るもののために– 決定詩 –(坂村真民)JUON・鮭遡上プロジェクト キーワードは帰巣本能 「総(ふさ)の国の原風景」は故郷バージョン第3弾 ジージ、気持ちがいいね ひがし幼稚園の野山遊び 中学生緑のボランティア 野田常務理事兼事務局長挨拶 生徒代表挨拶 NPOセンターのボランティア体験活動事業 夏休みボランティア体験活動に参加した高校生の感想文 探求心旺盛な高校生・厚地優奏さん 湧水ネットワークと同い年の飯島詩さん 『和食の学び舎』の会場は六国見山 MTBみうらと協働、赤道全面開通 願わくはあと7年再生活動継続<参考文献>北鎌倉湧水ネットワークのあゆみ(2000年10月~2023年3月)あとがき
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「朝焼けと狩人 幻の画家、笠木治郎吉の生涯」(細井聖著、かまくら春秋社)
http://kitakamayu.exblog.jp/32543753/
2022-04-03T17:19:00+09:00
2022-04-04T07:05:50+09:00
2022-04-03T17:19:41+09:00
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BOOK
「朝焼けと狩人 幻の画家、笠木治郎吉の生涯」(定価1,760円=税込)は、幻の画家といわれた笠木治郎吉(1862~1921)と、その妻ヨシの生涯を描いたノンフィクション・ノベルだ。かさぎ画廊の笠木英文さんから3月30日の発売前に送っていただいた。
絵に関しては全くの素人なので、絵そのものの批評はできないが、送られてきた郵便小包を開いて、本の表紙の「猟師の親子」の絵にしばし目が釘付けとなった。年甲斐もなく、胸が熱くなってきた。本文では下記のように絵の説明がされていた。
「朝霧の原野の中を、こちらにやってくる父と息子の狩人がふたり、画面いっぱいに描かれている。ふたりは肩から蓑をかけ、それぞれに鉄砲をかついでいる。前を歩く父と、うしろを歩く息子の間には、一本の竿が渡されていて、そこには今日の獲物である大きな兎が二羽ぶら下がっている。父は斜めうしろを振り向いて、息子に何かを語りかけている。何を言っているのかはわからない。ただそれは、父が息子に残しておきたい、言葉より重い何かに違いなかった」 目が釘付けとなった理由は2008年に夢工房から「無名人からの伝言―大利根用水に賭けた野口初太郎不屈の人生―」(http://www.kitakama-yusui.net/7/7mumei.html)を出版した時のことを思い出したからである。わたしは亡き父の思いを受け止めて大叔父の自叙伝「無名人からの伝言」を出版した。
「朝焼けと狩人 幻の画家、笠木治郎吉の生涯」のあとがきで著者の細井聖さんは「笠木英文は治郎吉の孫であり、小説の最後の行に胎児として登場する。治郎吉の絵を世にしらしめたいという思いは母親(笠木和子)と同じで、企業に勤めながら、母の画廊を手伝ってきた。英文が『かさぎ画廊』のホームページを開設すると、世界中から治郎吉の絵に関する情報がもたらされるようになった。英文は、企業に勤めていたころの海外勤務の経験を生かして、数点の治郎吉作品を日本里帰りさせた。また、笠木家の家系図を整備したり、治郎吉の海外渡航歴を調査したりした」と記している。
笠木英文さんとわたしは、鎌倉芸術祭実行委員会の運営委員である。運営委員としてご一緒していてその立ち振る舞いから、使命感のようなものを持たれていると感じていた。「朝焼けと狩人 幻の画家、笠木治郎吉の生涯」を読み、この印象は間違いではなかったと思う。
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陶芸の自分史出版のお礼に夫婦湯吞み12・3
http://kitakamayu.exblog.jp/32403785/
2021-12-09T06:30:00+09:00
2021-12-09T19:48:40+09:00
2021-12-09T06:30:15+09:00
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BOOK
12月3日、買い物から帰ってきたら玄関に名入りの夫婦湯吞みとお皿が届けられていた。北鎌倉匠の市で知り合った陶芸家の梶原美枝子さんが届けてくれた。今春、梶原さんから「中学時代の恩師から自分史の出版を勧められましたが、出版社に頼むと費用が掛かりすぎる。どうしたらいいでしょうか」と相談があった。
そこで知己の写真家の島村国治さんの協力を得て、4月1日に「陶芸の自分史」(梶原美枝子著、協力・島村国治、野口稔)を50部出版した。「陶芸の自分史」はA4判、本文58ページ、オールカラー、文章の処理はわたし、写真の処理を島村さんが担当し、印刷はプリントパックを利用した。出版社の見積もりより十分の一以下の費用で出版できた。
自分史の出来栄えは、梶原さんが想像して以上のものとなった。自分の培ってきたノウハウが人様のお役に立つことができて、とても嬉しい。さっそく妻と夫婦湯吞みで日本茶をいただいた。心を込めて焼いてもらった作品で飲むお茶の味は格別!
陶芸の自分史梶原美枝子 目次はじめに陶芸と私電気窯の可能性オリジナルに挑戦作品海外に行くフィレンツェ芸術祭典‘96“グランダルシュ日本フェスティバル”出品有名作品の写し仲間達との旅・私の旅黒に挑戦超高速窯の研究教室を離れて普賢岳の灰峰窯の誕生初めての個展レストランの器を作るふたり個展掲載された本が文化財に…みみずく会と再びの出合い華道家の器として作品展偶然の出合い峰窯の引越あとがき ]]>
「相場観は人生観」出版関係者3人で楽しく懇談11・24
http://kitakamayu.exblog.jp/32396423/
2021-12-03T07:05:00+09:00
2021-12-03T07:10:22+09:00
2021-12-02T09:56:58+09:00
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BOOK
新型コロナ、100もなければ0もない
「朋(とも)あり遠方より来たるまた楽しからずや」-。11月24日、東京竹橋の如水会館で、八木邦浩元アイザワ証券常務と片桐務夢工房代表と昼食をしながら楽しく懇談した。コロナ禍、二人とは二年ぶりの再会だ。八木さんは超大物相場師・大山英夫さん(故人)の業績をまとめた「相場観は人生観」の共著者で、この本は夢工房から出版した。
3人はそれぞれの近況を話し、新型コロナウイルス感染拡大についても意見を交わした。このやり取りの中で、「もし、八木さんの『師匠』の大山さんに『新型コロナウイルスについてどう思いますか』と質問したら、どのような答えが返ってきますか」と私は八木さんに尋ねた。
「『100もなければ0もない』というでしょうね」。八木さんは躊躇なく答えた。身の回りには、新型コロナウイルス感染拡大で苦境に陥っている人が多数存在している。この事実に目をそらしてはいけないが、新型コロナウイルスの出現は大きなパラダイムシフトを引き起こす可能性がある。
都会の街中では落ち葉はゴミだ。しかし、循環農法を参考に循環資源活用型農業を実践している私にとっては、落ち葉は土壌改良に最適な貴重な循環資源だ。「迷うから分かる」とも八木さんは言った。見方を変えれば別の世界が広がる。片桐さんからは夢工房から出版された「棚田の生き物図鑑」と「はだの風土記」の二冊の本の献本を受けた。今後の六国見山の里山再生活動に役立つことは間違いない。
上京自体が久しぶりだった。二人と別れた後、皇居東御苑を散策しながら東京駅に向かった。皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備され、昭和43年(1968)から公開されている。平川門から入り大手門から出た。朋(とも)と語り合い、美しい風景を眺めることができた。いい一日を送れた。良き朋と引き合わせてくれた神仏にふか感謝したい。
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徳島 林政の現場に生きて~藤原利廣の軌跡~(D-Factory)
http://kitakamayu.exblog.jp/31621138/
2020-08-31T14:15:00+09:00
2020-08-31T14:16:44+09:00
2020-08-31T14:15:00+09:00
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BOOK
JUON NETWORKのもう一人の産みの親の回顧録 8月30日、認定NPO法人JUON NETWORK(http://juon.or.jp/)の“産みの親”の小林正美樹庵http://www.juann.jp/index.html)社長から、「徳島 林政の現場に生きて ~藤原利廣の軌跡~(定価:本体1,500円+税)が郵送されてきた。発行所は有限会社D-Factory(https://defac.net/company/、〒151-0053東京都渋谷区代々木1-47-6-1階 TEL03-4500-2208)。
藤原利廣さんは半世紀にわたり、森林・林業振興のために徳島県職員として林業行政、そして退職後は流三好域林業活性化センターで、専務理事として吉野川の活性化に取り組んできた。藤原さんはJUON NETWORKの設立とその活動にも多大な貢献をした。本書は今年88歳の米寿を迎えた藤原さんの人生の足跡を藤原さんの口実を基に小林社長とJUON NETWORKの蓮見澄さんの二人が回顧録としてまとめた。
藤原さんはJUON NETWORKのもう一人の“産みの親”といっていいかもしれない。藤原さんはJUONNETWORK設立のきっかけの一つを作った。1995年に発生した阪神淡路大震災の際、大学生協は仮設学生寮の建設をした。この時、徳島県三好地域の林業関係者が間伐材製のミニハウスを提供したが、林業関係者の中心人物が藤原さんだった。
「公務員は事なかれ主義に陥ることが多くある。藤原さんは公務員らしくない公務員だ。きっと上司や仲間から予期せぬ批判を受けたであろうと推測する。それにも負けず、自分の人生を貫かれた人、わたしたち庶民にとっては、まさに役に立つ人=役人に思えてならない」。小林社長の藤原さん評である。酷暑の中、読み終えて一服の清涼剤をいただいたような爽やかな気持ちになった。
*取材を通じ知りあい、地域活性化や故郷再生で意気投合し、団塊世代の地域デビュー支援を目的とした団塊サミットを開催した小林社長とはこのところお会いしてない。しかし、元気に活動を続けているようで安心した。小林社長は、2013年11月に岐阜で開催された「団塊サミットin Gifu 2013」で「まだまだこれから 阿修羅のごとく」と宣言した。それを今も実践している。凄い!
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相場観は人生観-個人投資家の「守護神」大山英夫の投資哲学-
http://kitakamayu.exblog.jp/30432862/
2019-09-03T20:14:00+09:00
2019-09-03T20:16:57+09:00
2019-09-03T20:14:18+09:00
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BOOK
2016年5月、友人で藍澤証券元常務の八木邦浩さんとの共著で黒子に徹していたため、世間的にはまったく知られていなかった超大物相場師・大山英夫さんの業績をまとめた「相場観は人生観」(1600円+税、夢工房)を出版した。大山さんは自らが考案した株式投資方法で個人投資家の財産形成に多大な貢献をし、2015年の6月、91歳の誕生日目前に亡くなった。事情があって、3年後の令和の時代になって世に問うことができるようになった。
今回の出版は当時、40年前に藍澤証券本店営業課長だった八木さんを取材して書いた1本の原稿がきっかけとなった。1972年4月に共同通信社に入社したわたしは、7年間の“ドサ回り”を終え、1979年6月、共同通信社本社へ異動になり、東京証券取引所の中にある記者クラブ「兜倶楽部」に配属された。ここで経済部記者のスタートを切ったのだ。
2015年6月末、八木さんは「大恩のある大山先生の成し遂げたことを本にして、来年(2016年)の6月15日の命日に遺族にお届けしなければ、死んでも死に切れない」と思い詰めた表情でわたしに語りかけた。取材・執筆期間は約4カ月。表面的な数字だけを見ると短期間だが、かつて経験したことのないほどの濃密な時間を過ごした。
お金持ちだけでなく普通のおじさんやおばさんが参加可能な大山投資哲学は、今後の証券業界の潮流となり、株式投資をマイナスイメージからプラスイメージに転換させるきっかけになる可能性がある。これまで何冊かの本を出版したが、経済関係の本を書いたことがなかった。本書はある意味では経済部記者としての“卒業論文”でもある。
【「相場観は人生観」の購入方法】
出版社の夢工房から郵送料無料で入手が可能だが、丸善東京丸の内本店、横浜有隣堂東口店、新宿紀伊国屋、池袋ジュンク堂などの全国各地の書店でも発売予定だ。
【夢工房】
〒257-0028 神奈川県秦野市東田原200-49
TEL(0463)82-7652
FAX (0463)83-7355
メ-ルアドレス yumekoubou-t@nifty.com
ホームページ http://yumekoubou-t.com/
相場観は人生観-個人投資家の「守護神」大山英夫の投資哲学-
帯の文章
ライバルはあの是川銀蔵と石井久-。最大の目的は個人のお客の財産を増やすこと。影に徹した稀代の相場師・大山英夫が、一番弟子・八木邦浩と二人三脚で歩んだ理想の相場道追求の軌跡。
目次
はじめに 八木 邦浩
藍沢吉雄二代目社長にいただいた「見えない財」を思う
哲人・大山先生を思う
第1章 私は黒子
第2章 割安、超長期、我慢比べ
第3章 我思故我在
第4章 道のりは西遊記
第5章 野村徳七の約束
第6章 原点は満州・遠州銀號
第7章 全てに通じる親孝行
永久保存版「大山語録」(八木メモ)
刊行に寄せて 前田和利
あとがき 野口 稔
【著者プロフィール】
八木 邦浩(やぎ くにひろ)
1941年東京都生まれ。中央商業高校卒、中央商科短期大学卒。60年藍澤證券入社。83年取締役法人部長、85年取締役株式部長兼資産運用部長、87年取締役総務部長、88年取締役商品部長、90年常務取締役営業本部長、92年常務取締役監査部門担当。93年6月常務取締役退任。93年9月株式会社アイ・アール・アイ社長、97年会長。2001年アイ・アール・アイ退社。
野口 稔(のぐち みのる)
ジャーナリスト。1948年千葉県生まれ。千葉県立佐原高卒、一橋学経済学部卒。72年共同通信社入社。福岡支社、長崎支局、大阪支社経済部、本社経済部などを経て2004年から本社メディア局編集部。08年定年退職。任意団体「北鎌倉湧水ネットワーク」代表。著書に「北鎌倉発 ナショナル・トラストの風」「団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!」「ガイドブックに載らない北鎌倉の神々」(共著)「無名人からの伝言」「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」。いずれも発行は夢工房。
出版のきっかけとなった新聞記事:1980年1月4日付静岡新聞朝刊
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身につまされた「枯れるように死にたい」 (田中奈保美著、新潮文庫)
http://kitakamayu.exblog.jp/28636351/
2017-12-18T12:30:00+09:00
2017-12-19T06:54:54+09:00
2017-12-18T12:30:38+09:00
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BOOK
相次ぐ団塊世代からの喪中はがき
わたしは現在、昭和23年(1948年)生まれの69歳。団塊の世代のど真ん中に位置している。妻はわたしより一つ年下の68歳でやはり団塊の世代に属している。
現在、この世代が直面している大きな問題の一つが、終末期を迎えた親の介護であろう。親の介護を引き受ければ、必然的に「延命治療」と向き合わざるを得なくなる。
今年も同世代の友人たちから「喪中につき年末年始のご挨拶を失礼させて頂きます」との喪中はがきが次々に届いている。理由は「母春江が96歳で永眠」「母ヤスが94歳で永眠」「義母満知子が93歳で永眠」「義父秀夫が94歳で永眠」…。友人たちはどのような看取りをしたのだろうか。そんな問いかけをしながら、喪中はがきを読む。
基本の基
著者の田中奈保美さんは文庫本のあとがきに「本著は高齢者の終末期に私たちは何を準備し、どう受け止めたらいいのか、その基本の基を記したつもりです」と記した。本著では「延命治療」の現実、問題点が丁寧な取材の積み重ねで分かりやすく説明されている。終末期を迎えた親の介護に苦悩している人たちに、一読を薦めたい。
「かつては食べられなくなれば自然に亡くなっていたお年寄りが、車にガソリンを注入するように管を通して人工的に栄養を補給されながら、おむつをしたまま意識もうろう状態で、家族から遠くはなれた場所でひとり寝たきりで、ときには何年もの日々を送り続けている。…『人間の尊厳を冒していると思わない、きみ』」。フリーライターの田中奈保美さんは、夫の佐藤順さんのこの問いかけから、高齢者の看取りに強い関心をもった。
田中さんは複数の老人福祉施設を取材し、友人と知人への看取りの聞き取りも行った。そして自らが看取り体験した。「その結果見えてきたのは、多くのお年寄りが本人や家族が望まない濃厚な医療を受けて亡くなっている現実であり、さらに家族や友人から離れて、非人間的な亡くなり方をしているという事実だった」
100歳目前の義父が誤嚥性肺炎で入院
本書のテーマ、内容は身につまされるものがある。なぜなら他人事ではないし、今尚、その渦中に在るからだ。約10年前、長崎市内で二人暮らしをしていた義父(当時94歳)と義母(当時84歳)を北鎌倉の自宅でお世話をするようになった。妻には兄と妹がいる。義兄は北九州、義妹が広島在住で、それぞれが事情を抱えていた。義兄は義母の介護があり、義妹は造園業を営む義弟と結婚し、義弟の両親と同居していた。わたしの場合、父は早くに亡くなっている。故郷(千葉県香取郡東庄町)に住む当時84歳の母は、姉が面倒を見てくれていた。当時、自分の親の介護の問題は発生していなかった。
「100歳まで生きたい」と念願していた義父だったが、100歳を目前にした2012年2月末、誤嚥性肺炎を発症し、救急車で最初の病院に搬送された。主治医の見立てでは「残された命は1週間」とのことだった。しかし、強靭な生命力を持っていた義父は、抗生物質が劇的な効果をもたらし、それから8ヶ月間、命の炎を灯し続けた。
ただし、生きながらえることが本人とって幸せだったかどうかは分からない。入院中、多くの時間、義父は顔に酸素マスクを宛がわれていた。栄養補給は点滴によってなされ、導尿カテーテルを膀胱内へ挿入されたままだった。ベッドから転落しないよう、ベルトで腰は縛り付けられていた。両手にはミトン(指を入れる部分が、親指だけが分かれて、他の指は一つにまとめられている手袋)がはめられていた。点滴や酸素マスクを義父が嫌がって、外さないためだ。
延命のための輸血は一回だけに
その姿を見て、わたしはこうまでして自分は生きながらえたくないと思った。妻もそう考えた。こんな状態の時に「医術を尽くして一分一秒でも人命を延ばすことを至上命令」(多分)と考えた主治医は「貧血症状が出ている。このままでは命が危ない」と、わたしたちに熱心に輸血を勧めた。義母に意見を求めた。義母は「もうそこまでしなくてもいい」と顔をしかめた。これ以上の延命措置はしない。3人の意見は一致した。その旨、主治医に伝えたが、引き続き、輸血が必要であるとわたしたちに訴えた。とても真面目な女医さんで、悪意があるとはまったく思えなかった。
主治医からそこまで言われると輸血を拒否することは出来なかった。輸血を拒否したことで、もっと生きられたはずの義父の死期を早めたのではないか。きっと将来、このことがわたしたちの心の傷となって残るに違いない。そう、考えたからだ。「1回だけという約束でお願いします」。わたしたち夫婦は主治医に伝えた。輸血によって、義父はしばらく延命した。しかし、延命によって最初に入院した病院の入院期間が3ヶ月を超え、次の病院への転院を余儀なくされた。
2番目の病院でも治療法は最初の病院と同じだった。義父の顔に酸素マスク、両手にミトン、腰にベルト、膀胱内へ導尿カテーテル…。それは痛々しい姿だった。ほどなくしてここでも主治医から輸血の提案があった。「またきたか」。予想はしていたが、今回はすんなり応じる気持ちにはなれなかった。
そこでわたしは「実は最初の病院で『輸血は1回限り』という約束で、輸血してもらいました。こうした経緯を踏まえれば『輸血をお断りします』という結論に至ります。しかし、わたしたちはごくありふれた普通の人間です。命を扱う医師でもないし、悟りの境地に達した宗教家でもありません。人間の命の最終判断を下すことにものすごい戸惑いと抵抗があります」と、自らの率直な気持ちを主治医に伝えた。すると主治医は「お気持ち分かりました。この問題はわたしたち医師のほうで判断しましょう」と語った。主治医は輸血を中止すると同時に高カロリー液の点滴も止め、通常の点滴に戻してくれた。
このことがあってから、義父は2番目の病院で間もなく、息を引き取った。最初の病院で劇的な回復を見せた時、義父はわたしに言った。「野口さん、たった一つのお願いがあります。わたしを自宅につれて帰ってください」。義父のたった一つの願いを叶えてやることができなかった。今でもその言葉が耳に残っている。苦い思い出だ。ただし、一つだけ救いがある。臨終の場面に妻とわたしの長男を立ち合わせることができた。わたしの長男は義父の初孫で、「目に入れても痛くない」という表現がぴったりと当てはまるほど可愛がってくれた。
圧迫骨折繰り返す義母(94歳)は老健でリハビリ中
2015年5月、義母(当時91歳)が腰を圧迫骨折した。義父のお墓を長崎から北鎌倉に移すためョートステイで、介護老人保健施設(老健)に預かってもらった。このとき、部屋のドアのノブをつかみ損ねて転倒してしまった。2017年4月、自宅で再び腰を圧迫骨折した。原因は分からなかった。3週間ほど、病院に入院し、老健でリハビリして、7月に自宅に帰ってきた。
しかし、自宅での生活は長くは続かなかった。8月に入ってから自宅のベッドに上がり損ねてしりもちをついた。「腰が痛い」「腰が痛い」と再三訴えるので、病院へ連れて行って、レントゲンを撮ってもらうと3度目の圧迫骨折だった。レントゲン写真を見ると義母の背骨はいつ壊れても不思議ではないくらいもろいガラス細工のようだった。退院後は再び、老健でリハビリをしている。2回目の圧迫骨折の場合は、リハビリ中に手すりに使って歩くことが出来るようになった。しかし、今回は車椅子を使わないと移動が出来ない状態が続いている。
今度は母(94歳)が誤嚥性肺炎を発症して入院
8月19日、丸太に挟まれて右手薬指を骨折してしまった。土曜日だったので救急病院で応急措置をしてもらった。その翌日、姉から「母が誤嚥性肺炎で入院した」との連絡があった。すぐに駆けつけたかったが、翌日の21日の月曜日に本格的な骨折の処置をしてもらう必要があった。シーネ(添え木)で右手薬指を固定してもらった。危なっかしい車の運転で故郷へ向った。母は昨年3月、脳に血栓ができ、寝たきり状態になってしまった。老健や特別養護老人ホーム(特養)に入らず、自宅で姉が介護していた。姉は誤嚥しないよう朝昼晩おかゆを作った。自力で排泄行為ができないので、必要に応じて大人用おむつの交換をした。お風呂には週2回、老健で入れてもらった。医師が月1回往診してくれた。姉75歳、母94歳。完璧な「老々介護」の世界である。
「俺だけど分かる」。母に呼びかけた。「稔だね。分かるよ」。母はかすれるような声で呼びかけに反応した。小柄(最大身長149センチ)な母が一段と小さくなっていた。「命が尽きようとしている。まだ意識のあるときにわたしの二人の息子に引き合わせよう」。そう考えて、長男(43歳)と次男(40歳)に母の状態を連絡した。ほとんど声を出すことなく眠るようにベッドに横たわっていた母だったが、長男が見舞った時は「大きくなったね」、次男の時は「いい男になったね」と、はっきりと言葉を口にした。よほど嬉しかったのであろう。
腕の静脈への通常の点滴を選択
月が替わった9月、「一人では心許ない。一緒に立ち会ってほしい」という姉からの電話で、母の主治医と今後の治療方針を巡る話し合いの場に同席した。主治医は①腕の静脈への通常の点滴②中心静脈(大腿静脈、内頚静脈、鎖骨下静脈などの太い静脈)への点滴③大腸がんなどの検査の実施④胃ろうの取り付け(口などからの食物・水分の補給が困難な場合、胃壁と腹壁に穴をあけてチューブを取り付け、外から直接胃に栄養剤などを注入する治療法)-の四つの治療法を提案した。
「母はもう十分生きてくれた。苦痛を与えたくないので、過度な延命治療は望まない」。姉とわたしの思いは一緒だった。躊躇なく主治医へ腕の静脈への通常の点滴の継続をお願いした。通常の点滴も延命治療の一つだが、これを「止めてください」とは言えなかった。やはり、母には少しでも長く生きていて欲しいとの気持ちがある。それと寝たきり状態になった母が「どうしてこんな惨めな状態になってしまったのかな。世話(介護)をしてくれている勝子(姉)に申し訳ない。でも、死にたくないな」とポツリと言ったことを覚えていたからだ。
主治医は「腕の静脈への通常の点滴だけならば寿命は1~2ヶ月で尽きる」と言った。この通りなら母は10月末までに帰らぬ旅に旅立っているはずだった。しかし、義父同様に母は強靭な生命力を持ち合わせているようだ。今日(12月18日)現在、母は存命している。現在、病院に併設された療養型病棟に移された。少しは口から食べ物が入るようになった。命の不思議を感じる。
きっかけは第3回鎌倉大根収穫祭
本書を読むきっかけとなったのは11月26日に開催された第3回鎌倉大根収穫祭(主催:鎌倉だいこん未来研究クラブ)だ。このイベントのお手伝いに来ていた名和幸子さんから本書をいただいた。名和さんは「(本書)第2章の特養が、私のかつての職場。元県職員だった関係で、請われて看取りの実践に一緒に取り組みました。著者の奈保美さんとは、その時の取材をきっかけに親しくなり、今ではとても親しい友人です。多くの方にこの問題を自分の事として考えてほしいと、二人で講演や、機会をとらえて働き掛けをしております」とのことだった。
もっと短い書評にしようと思ったが、自分の足元をしっかり見つめる必要があると考え、長文の書評となってしまった。「私たちはいよいよ人生の終わりを迎えたとき、どんな終わり方をしたいのか。高齢者になった人はもちろん、まだ若いと思っている人も考えておきたいものだ」と田中奈保美さんは指摘している。まったく同感である。
介護を体験することで「生老病死(しょうろう-びょうし=生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと)」がままならないことを、はっきりと自覚するようになった。「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」。このことわざもしっくりくる。平成27年の最新統計によれば日本人の平均寿命は男性80.79歳、女性87.05歳。健康寿命は男性71.19歳、女性74.21歳。来年は70歳だ。統計上から判断する限り、健康でいられるのもあとわずかだ。母、義母をしっかりと看取り、子どもたちに「オヤジの背中」を見せたい。
【枯れるように死にたい解説】(小鳥輝男)
私は滋賀県で開業している一医師である。
平成19年より「三方(さんぽう)よし研究会」を主宰している。この研究会は看護師、薬剤師、リハビリ技師、歯科医師、医師などの多職種で構成されている。発足当初は「東近江地域医療連携ネットワーク研究会」と呼ばれ、多職種が連携を図り、脳卒中患者が、あらかじめ指定された急性期、回復期、維持期の病院や施設を、納得してもらった上で移ることにより、能率良く地域の医療資源を利用することが検討されていた。
いわゆる脳卒中連携パス研究会である。そこでは患者も病院もウィン、ウィンの関係が語られた。しかし医療に勝った、負けたはそぐわない。むしろ、地元近江商人の家訓である「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」にならい、「患者よし、機関よし、地域よし」をモットーに顔の見える関係づくりをめざした地域連携の研究会として「三方よし研究会」と名付けられた。
やがて月一回の研究会を重ねるうちに、脳卒中だけでなく、医療を取り巻くいろいろの問題も取り上げていこうとの意見が会員の中から出てきだした。そのひとつが胃ろうの是非に関する問題提起であった。
ちょうどその時期に田中奈保美さんが本書の単行本を発表された。そこで、会員たちが田中さんを呼んで市民公開講座を開こうと動き出した。わが会員のフットワークは良い。やがて計画は進み、平成23年12月18日に市民講座は開催された。
私は医師会長として講演の最後のまとめ役を受け持った。私の結論は高齢者の看取りに大切なことは家族の愛情と覚悟ということであったが、田中さんもそのとおりと言ってくださった。田中さんと私の付き合いは、それから始まっている。
本のはじめにこうある。
“
「病気でもないのに病院に送るとはなにごとだ! ねえ、きみ、おかしいと思わない。病院は病気を治すところであって、亡くなった年寄りを送るところじゃないでしょ」夫はけっこう怒っていた。しかし、怒りの矛先がなく、とりあえず身近な私に投げかけてきたのだった。
今の日本では、死は病院で迎えるものと思われている。老健、特養(施設)の職員もそう思い込んでいる。だから、お年寄りは老衰で食べられなくなると、病院へ自動的に送られていた。しかし田中さんの夫である佐藤順先生は方針を転換し、職員の猛反対の中、家族が望めば施設で最期を看取ることを決意された。
なぜか。人は老衰してくると、口からものを受け付けなくなり、枯れるように亡くなってゆくのだと、これまでの看取りの経験からよく知っておられたからだ。先生のお考えは、老衰で亡くなりつつある高齢者は病気ではない、病院に送る必要はない。病院は難しい病気を治すところだ、という信念があった。
病院に送られた高齢者はどうなるか。食べられない病人として、胃ろうもしくは鼻から胃へチューブを差し込んで栄養を送り込めば、生命だけはいとも簡単に延長することができる。そしてやがて意識もなくなり、時には何年も生きることになるのである。
「医師はときに命の残りの時間が見えたときでさえ、医術を尽くして1分1秒でも人命を延ばす傾向がある」と佐藤先生は言われる。が、人間の終末期に大事なことは医療ではなく、「住み慣れたところで家族が寄り添い命の残り時間を共に過ごすことではないか」と自らの体験を踏まえて訴える。
なぜ施設の職員は入院させたがるのか、家族もそれに簡単に同意してしまうのか。それは今の日本人の死に対する意識の未熟さにあると田中さんは言われる。「大人たちはどれほど死をリアリティをもって豊かに想像できるのだろう。病気の果ての死ではなく、老衰の先にある自然な死をイメージできているだろうか。
高齢者の死に対する無関心、身近なお年寄りの終末期の尊厳をないがしろにして平気でいられる今の日本の大人たちの姿を見ると、子どもたちが『人は死んでもまた生き返る』とわけのわからないことをいうのは当然の結果なのかもしれない、いやないがしろにしているという意識すらないといったほうが正しいのかもしれない」と。胃ろうの是非もさることながら、本書の真髄はここにある。
「今の日本人には意識すらない」のが実情である。親が老衰してくると小生も往診を依頼されるが、大体が訪問一番、「どこか入院できるところをさがしてください」と訴えられる。私は在宅看取りに最も適した高齢者だと思うのだが、そこで死とか生とかを説明しだしても遅い。家族も自宅で看取る気が最初からない。
結局は入院場所を探すこととなる。私の立ち位置は、悲しいことだが、やる気のない家族に在宅看取りは勧めない。本書を読まれた方は老若男女を問わず、生への感謝と、死を真正面から見つめることを忘れてはならないこと、また老衰の先にある死は自然死であることをよく理解していただけると思う。
私は三方よし研究会の代表として、全国あちこちから講演を依頼される機会が多い。先日もある市で医師がたくさん参加している講演会で話をした。そこで胃ろうに批判的な意見を述べた。自然死への理解がなく、老人に非常な苦痛を味あわせていると。
講演のあとに意見交換の場が設けられていたが、あらかじめ配布されていた感想用紙には、多分胃ろう賛成派の医師だろうと思われるが、「上から目線だ」との書き込みが多数見受けられた。私はこの意見に対しては、あえて言及しなかったが、胸にはわだかまりが残った。そこで、この件につき田中さんに感想を求めてみた。
田中さんのお返事の中から、印象的なコメントをご紹介しよう。
「『死の準備教育』で知られるアルフォンス・デーケン先生は人間の死を肉体的な死だけでなく、四つの側面に区別しています。その四つとは「心理的な死」、「社会的な死」、「文化的な死」、「肉体的な死」です。意識なく胃ろうで生かされている患者さんについていえば、天井だけを見つめて毎日を送る患者さんの生活に文化的な潤いはまったく、といってありません。社会的にはどうでしょう。病院や施設での一人きりの毎日。家族は訪ねてきてくれるのでしょうか。たとえ来てくれたとしてもすでにコミュニケーションをとることができないとしたら、社会的にも瀕死の状態です。心理的にはどうでしょう。生きる喜びを実感したり、明日への希望や夢はあるのでしょうか。心理的にも社会的にも文化的にも死んでいるか、もしくは瀕死の状態にあって、身体だけは人工的な医療の力で生かされている生命の意味とは、いったいなんなのでしょう。誰のため、何のための医療なのか疑問に思うのは私だけでないと思います。
人間が生きるとは、苦しみや悲しみ、死にたくなるような絶望を味わうことではあります。それでも人間が今日を生き、明日も生きていこうと思えるのは、それと同じくらいの数の喜びや感動、幸せ、笑いがあるからです。
自然のままであればとっくに亡くなっている人を、夢も希望も持ちようのないまま、器具や機械を使って人工的に生かして、苦しみや絶望といった地獄を味あわせ続ける権利や決定権が医師にあっていいものかと思います。
意識のないまま、胃ろうで生かされているお年寄りは、果たして人として生きているといえるのでしょうか。医療の目的とは本来は患者がよりよく生きるためにあるはずです」
読者のみなさん、ゆめゆめ自然死で極楽に行こうとされているご老人を、不要の胃ろうという医療手段を介在させて、地獄でエンマ様に会わす愚挙を犯してはなりませぬぞ。(2014年2月、医師)
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「建長寺-そのすべて」(監修・高井正俊前宗務総長、宗禅寺住職)
http://kitakamayu.exblog.jp/25867984/
2016-08-03T13:47:00+09:00
2016-08-03T21:00:27+09:00
2016-08-03T13:47:17+09:00
kitakamayunet
BOOK
このほど、高井正俊・前建長寺宗務総長(宗禅寺住職)より、ご自身が監修された「建長寺-そのすべて」(かまくら春秋社、非売品)を送っていただいた。高井さんは平成4年(1992)以降、平成27年(2015)までの23年間教学部長、宗務総長として建長寺に奉職された。
この間、高井さんは「現代版寺子屋」であるべきだとの強い信念に基づき「開かれた寺・建長寺」を目指し、多大な努力をされた。A4変型判、326ページ、カラー写真満載の高井さんの思いが込められた力作である。北鎌倉湧水ネットワークは節目のときに、第1回団塊サミット 団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!などの重要なイベントを建長寺で開催してきたが、これはひとえに高井さんのお陰である。高井さん抜きに北鎌倉湧水ネットワークの発展は考えられない。
<建長寺を会場にしたイベント>
【目的 一橋大学・神奈川フィルハーモニー支援、地域文化振興】
9・9チケット発売開始!石田泰尚・山本裕康リサイタル建長寺Ⅳ
超絶的な演奏技巧に陶然①石田泰尚・山本裕康リサイタル
深まりゆく感動!石田泰尚・山本裕康リサイタル in 建長寺 Ⅱ
息ぴったりのデュオ:石田泰尚・山本裕康リサイタル(1)
*建長寺コンサートが縁で開催したイベント
6・14石田・山本・諸田 ピアノトリオ・コンサートに500人
【団塊の世代関連】
第1回団塊サミット 団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!
あれから10年!4・20団塊サミットスペシャルin建長寺
故郷はありがたきかな…①団塊サミットSPin建長寺第1部
“地域デビュー”へのお誘い第4弾「地域で働き、愉快に交流」
【出版会関連】
東大社銚子神幸祭出版報告会①団塊サミットの提言を実践
「ガイドブックに載らない北鎌倉の神々」出版記念会①
【レヴィン関連】
収益をレヴィン基金に寄付!追悼コンサートin建長寺(詳報)
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二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう:横田南嶺
http://kitakamayu.exblog.jp/25693215/
2016-06-11T17:21:39+09:00
2016-06-11T17:21:13+09:00
2016-06-11T17:21:13+09:00
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BOOK
臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺老師から「二度とない人生だから、このほど、今日一日は笑顔でいよう 生きるための禅の心」(横田南嶺著 PHP研究所 1,200円+税)を送って頂いた。いつも思うのだが、横田南嶺老師の文章は深みと分かりやすさ、優しさが同居しており、一言一言が心に染みる。
横田南嶺老師は本書の出版の目的を「(詩人)坂村(真民)先生の詩を通して、生きるとは何か、愛するとは何か、家族とは、平和とは、などさまざまな問いにお答えしたつもりです」と本書の「はじめに」で記されている。坂村真民は「念ずれば花ひらく」「二度とない人生だから」の言葉で有名だ。
【念ずれば花ひらく】
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
【二度とない人生だから 】
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう
二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一遍でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう
横田南嶺老師は「第五章 ただ自然のままに~大宇宙大和楽」で「リレーのようにいのちと善い縁のバトンをつないでいく。それが今、この一代という区間を走っているわたしたちの役目です。<自分の命は一代だけではありません。駅伝のように与えられた自分の区間をしっかり走り、善き縁を次につないでいかなければなりません。>」と書かれている。
「わが意を得たり」と思った。実は2008年に出版した「無名人からの伝言―大利根用水に賭けた野口初太郎不屈の人生―」 の「おわりに」に次のよう書いた。
日は東の空を真っ赤に焼き、利根川河口の銚子方面からゆっくりと昇ってきた。冬の「利根の川風」は、身を切るように冷たい。大利根用水の笹川揚水機場の近くに佇み、小波を立てて上流に向け、ひたひたと逆流する川面を、体をすくめて見つめながら、はたと気付いた。
大水上山の雪渓から始まり日本最大級の大河と化した利根川の旅は、わが故郷に近い河口で終わるのではない。太平洋に注がれた利根川の水は再び天に昇り、雨水となって大水上山の頂上に還る。終わりは始まりである。自然の営みは、この正確で果てしない動作の繰り返しなのだ。
わたしは光、風、森、川、海などが織り成す下総台地で、父と母から生を受け、伴侶と結ばれ、二人の息子を授かった。息子たちは既に結婚している。近い将来、新しい命を授かるはずだ。人生は命のバトンタッチリレーである。自然のサイクルと同じく、人の営みも同様である。
本来、自分は何者で、一体どこから来て、何をしたくて、どこへ行くのか?「無名人への伝言」の執筆によってわたしは父、初太郎、レヴィンと同じ「下総台地の子」なのだという確かな自覚を持った。還暦、定年という人生の大きな節目を迎えた今年、しかも父新の命日の9月1日に、本書を出版できたことは大きな喜びである。
初太郎は「大利根用水事業史(下)」の見開きに「先祖の御霊前元 初太郎 昭和三十八年八月」と書いている。初太郎同様に、ご先祖様への感謝の気持ちを込めて、わたしも本書を実家のお仏壇に捧げよう。同時に故郷の発展という志で結ばれた「下総台地」、そして利根川流域に住むすべての人々のために。
2008年9月1日
「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景- 」は100年後の故郷の人たちのために、現在取り組んでいる「鎌倉の美しい里山プロジェクト」は孫の代をにらんでいる。横田南嶺老師の著書を読ませていただき、大いに意を強くした。
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主に鎌倉を描いた絵画集「蓼沼誠一風景絵画集」完成
http://kitakamayu.exblog.jp/25318807/
2016-02-19T19:01:55+09:00
2016-02-19T19:01:36+09:00
2016-02-19T19:01:36+09:00
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BOOK
料理研究家で画家の蓼沼誠一さんがこのほど主に鎌倉を描いた絵画集「蓼沼誠一風景絵画集」を作成した。現在、蓼沼さんはガンと懸命に闘っている。一日も早い回復を祈っている。
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禅の名僧に学ぶ 生き方の知恵(横田南嶺円覚寺派管長)
http://kitakamayu.exblog.jp/25054543/
2015-12-13T18:00:31+09:00
2015-12-13T18:00:30+09:00
2015-12-13T18:00:30+09:00
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BOOK
日頃お世話になっている横田南嶺臨済宗円覚寺派管長より新著「禅の名僧に学ぶ 生き方の知恵」(横田南嶺臨済宗円覚寺派管長 致知出版社、1,800円+税)を10月に送って頂いた。御礼の意味を込めてブログに掲載しようと思っていたのだが、主催するイベントや来年6月に出版に向けたわたしの新著「相場観は人生観」の取材などで遅れに遅れてしまった。そこでお詫びを兼ねて、先日、聖護院ダイコンをお届けした。今年は聖護院ダイコンの出来がすこぶるよく、形のいい聖護院ダイコンが一斉に収穫期を迎えていた。
本書では円覚寺ゆかりの禅僧や深く影響を受けた7人の禅僧(無学祖元、夢窓疎石、正受老人、白隠慧鶴、誠拙周樗、今北洪川、釈宗演)について丁寧かつ分かりやすく書かれており、名僧たちの奥深い知恵に感銘を受けた。中でも「第3講 正受老人 正念相続の一生涯」の「『正受老人一日暮らし』に説かれた教え」には「こういう風に考えればいいのか」と思い、目の前の霧が晴れたような気がした。
「正受老人一日暮らし」は次のように説く。「愚か者が、親孝行ができないというのは、長い一生だと思うからできないのだ。今日一日、今日一日と思えば退屈はしない。一日一日勤めれば、百年千年も勤めることはたやすいものだ」。8年前、長崎に住んでいた義父(当時94歳)と義母(84歳)の二人に北鎌倉に来てもらうことになった。義父は5年前、99歳で亡くなった。92歳になった義母は健在である。わたしは67歳、妻は66歳。老々介護の様相を呈している。狭い家だ。生活のペースが合わないのでそれなりに苦労がある。「一体、いつまでこの状態が続くのかな」。時々、妻がため息をつく。
現在、新著を執筆中の新著は黒子に徹したためまったく表舞台に出ることのなかった超大物相場師に関する内容だ。この超大物相場師は「株式市場は人生修行の場だ。そして投資を成功させるには、守るべき大前提がある。全てに通じる。それは親孝行」だと断言している。まるで禅問答のようで、その意味を理解するのに四苦八苦していた。こうした状況の中で、「正受老人一日暮らし」という教えに出会った。「明日はどうしてこうしてと考えても明日はまだ来ないわけだから、それは相手もないことを苦にするようなもの。今日一日をくらすための勤めを励み努めよ。少々の苦しいことはあっても、今日一日の辛抱だと思えば、耐え忍べる」。確かにそうだ。新著、介護、これからの生き方を考える上で素晴らしいヒントをいただいた。
正受老人一日暮らし(「禅の名僧に学ぶ 生き方の知恵」より転載)
第3講 正受老人 正念相続の一生涯
武家の家(信州松代藩主真田信之の庶子)に生まれたものの出家。生涯自らの寺を持たず、故郷飯山の小さな庵で母と暮らした孝行者。白隠慧鶴を厳しく鍛える一方、酒を愛し、村人に愛された。
そんな厳しい正受老人が一般向けに説いた教えがあります。「正受老人一日暮らし」というものです。
或る人の咄に「吾れ世の人の云うに、『一日暮らしといふを工夫せしより、精神すこやかにして又養生の要を得たり』と。如何となれば一日は千年万歳の初なれば、一日よく暮らすほどのつとめをせば、其の日過ぐるなり。それを翌日はどうしてかうしてと、又あひても無き事を苦にして、しかも翌日に呑まれ、其の日怠りがちなり。つひに朝夕に至れば、又翌日を工夫すれば全體にもちこして、今日の無きものに思ふゆゑ、心氣を遠きにおろそかにしそろ也。兎角翌日の事は命の程も覚束なしと云ふものの、今日のすぎはひを粗末にせよと云ふではなし。今日一日暮す時の勤めをはげみつとむべし。如何程の苦しみにても、一日と思へば堪へ易し。楽しみも亦、一日と思へばふけることもあるまじ。愚かなる者の、親に孝行せぬも、長いと思ふ故也。一日一日を思へば退屈はあるまじ。一日一日とつとむれば、百年千年もつとめやすし。何卒一生と思ふからたいそうなり。一生とは永い事と思へど、後の事やら翌日の事やら、一年乃至百年千年の事やら知る人あるまじ。死を限りと思へば、一生にはだまされやすし。」と。一大事と申すは、今日只今の心也。それをおろそかにして翌日あることなし。総ての人に.遠き事を思ひて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。
これはある人の言っていることを正受老人が聞いて、「これはいいことだ」と言ったのです。ある人は何を言っていたのかというと、次のようなことを言っていました。
「一日暮らしというのをやってみると非常に精神が健やかで元気になる。どうしてかというと、千年万歳といっても一日がその初めであるから、一日よく暮らせばその日は終わる。それを明日はどうしてこうしてと考えても明日はまだ来ないわけだから、それは相手もないことを苦にするようなもので、翌日に今の自分が飲み込まれて、その日を怠ってしまうことになってしまう。また次の日になれば、その翌日のことを考えてしまい、全体に持ち越してしまって、せっかくの今日をもうないもののように思ってしまう。明日のことばかりにとらわれてしまうと、心が遠くに行ってしまって、今を疎かにしてしまう。
明日はどうなるかわからないから、どうでもいいという人もある。けれどそれはいけない。明日はどうなるかわからないから、今日はきちんとやらなくてはいけない。今日一日をくらすための勤めを励み努めよ。少々の苦しいことはあっても、今日一日の辛抱だと思えば、耐え忍べる。逆に楽しみもまた、今日一日と思えば耽ることもないだろう。愚か者が親孝行ができないというのは、長い一生だと思うからできないのだ。今日一日、今日一日と思えば退屈はしない。一日一日勤めれば、百年千年も勤めることはたやすいものだ。一生と思うから大変なのだ。一生とは永いことと思えるけれど、後のことやら翌日のことやら、二年三年ないし百年千年のことを知っている人はいない。1年先とか2年先とか、死というものを遠く先に設定するから一生を疎かにしてしまうのだ」と。
正受老人は、一瞬一瞬を大切にしましたけれども、それが一般の人にはなかなか難しい。この人の言うように、せめて一日一日と区切って生きればいいじゃないか、と正受老人は言っているのです。
正受老人はこういう歌も示されています。
さしあたることのみ思えば人はただ帰らぬ昨日まだこぬ明日
人はたださしあたることに集中しろ、もう昨日は再び帰ってこないし足はまだ来ない、というわけです。それが「一日暮らし」ということです。
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「追われる男 小説特定秘密保護法」(北沢栄著 産学社)
http://kitakamayu.exblog.jp/23191704/
2014-12-10T19:10:00+09:00
2014-12-10T19:11:58+09:00
2014-12-10T19:09:55+09:00
kitakamayunet
BOOK
国家機密の漏えいに厳罰を科す「特定秘密保護法」が本日(12月10日)、施行された。政府に不都合な情報の隠蔽や、国民の「知る権利」侵害への懸念が根強いままの実施となった。この問題を考える上で非常に参考になる「追われる男 小説特定秘密保護法」(北沢栄著 産学社 定価1,728円」が、このほど抜群のタイミングで自宅に届けられた。
北沢さんとお会いしたのは今から42年前、お互いが20代の時だった。時は過ぎた。しかし、古希を過ぎても北沢さんの正義感に裏打ちされた旺盛な好奇心、あふれるバイタリティは不変だ。凄いことだ思う。今後のさらなる活躍を期待したい。
【著者紹介】北沢 栄(きたざわ・さかえ)
1942年12月東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。
共同通信経済部記者、ニューヨーク特派員などを経て、フリーのジャーナリスト。
2005年 4月から 08年 3月まで東北公益文科大学大学院特任教授(公益学)。
公益法人問題、公務員制度、特別会計などに関し、これまで参議院厚生労働委員会、同決算委員会、同予算委員会、衆議院内閣委員会で意見を陳述。
07年11月から08年3月まで参議院行政監視委員会で客員調査員。
10年12月「厚生労働省独立行政法人・公益法人等整理合理化委員会」座長として、報告書を取りまとめた。
主な著書に『公益法人 隠された官の聖域』(岩波新書)、『官僚社会主義 日本を食い物にする自己増殖システム』(朝日選書)、『静かな暴走 独立行政法人』(日本評論社)、『亡国予算 闇に消えた「特別会計」』(実業之日本社)、近著に中小企業小説『町工場からの宣戦布告』(産学社)。
訳書に『リンカーンの三分間ゲティズバーグ演説の謎』(ゲリー・ウィルズ著・訳、共同通信社)。
日本ペンクラブ会員。
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「黄金のバンタム」を破った男(百田尚樹著 PHP文芸文庫)
http://kitakamayu.exblog.jp/23173819/
2014-12-06T20:28:00+09:00
2014-12-07T07:54:06+09:00
2014-12-06T20:28:55+09:00
kitakamayunet
BOOK
先日、「まほろば楽団リーダー」の石井彰英さんから小包が自宅に届いた。開けてみると「『黄金のバンタム』を破った男(百田尚樹 著、PHP文芸文庫)」と一緒に「ファイティング原田さんについて書かれた書籍です。当時の背景、ボクシングシーン等がよく描かれています。ファイティング原田さん偉大です」という内容の走り書きが添えてあった。
わたしは格闘技(特にボクシング)とテニスファンだ。「エキサイトマッチ~世界プロボクシング」と、テニスの実況中継が観たくて20年以上前からWOWOWに加入している。音楽に限らず幅広い活動をしている石井さんはボクシング経験者でもあり、ボクシングの世界の裏表にも詳しい。これまでにも興味深い話を聞かせてもらっている。
『黄金のバンタム』とはかつて世界バンタム級と、WBC世界フェザー級の二階級制覇を成し遂げたエデル・ジョフレの異名。戦績は75戦69勝(48KO)2敗4引分け。巧みな防御と軽量級離れした強打者で、バンタム級史上最強に推す専門家も多い。輝かしい戦歴の中での2度の敗戦は、いずれもファイティング原田戦で喫したもの。
原田は怪物のようなジョフレに土を付けた唯一のボクサーなのだ。原田はどうしてこのような快挙を成し遂げることができたのだろうか?前から疑問に思っていた。このことに対する著者の答えは「原田の鋼鉄の意志」だった。「『黄金のバンタム』を破った男」は、石井さんからわたしへのちょっと早めのクリスマスプレゼントだったようだ。
*「黄金のバンタム」を破った男309ページより転載
私はこの「ボクシングを始めた時から、十年たったらやめるつもりでいた」という言葉に、原田の芯の入った覚悟を感じる。原田の練習および減量はまさに「地獄」を思わせるものだった。多くの記者が「なぜ、これほどまでに…」と思ったほどの凄まじいものだった。遊びたい盛りであるにもかかわらず、すべての誘惑を断ち切り、ストイックに修行僧のような生活を続けることができたのは、実は「十年」という覚悟ではなかったかと思う。
原田は、十年間はすべての楽しみを犠牲にしてボクシングに懸けようと思っていたのだ。青春のすべてをボクシングに打ち込む、と。だからこそ、つらい練習、過酷な減量にも耐えることができたのだ。しかし、その覚悟があっても、それを実行に移すことはたやすいことではない。ファイティング原田という男は、鋼鉄の意志を持った男だったのだ。
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必見!8・25TBS”終戦69年”ドラマ特別企画「遠い約束」
http://kitakamayu.exblog.jp/22440804/
2014-08-06T16:53:00+09:00
2014-08-26T10:58:49+09:00
2014-08-06T16:53:16+09:00
kitakamayunet
BOOK
日頃お世話になっている夢工房代表の片桐務さんからこのほど、暑中見舞いが届いた。暑中見舞いには猛暑を吹き飛ばすような嬉しいビッグニュースが入っていた。8月25日(月)夜9時から、TBSテレビで”終戦69年”ドラマ特別企画「遠い約束~星になったこどもたち~」が放映予定だが、このドラマの脚本は夢工房刊の増田昭一さんの戦争孤児たちの物語3部作◉満州の星くずと散った子供たちの遺書(本体1500円+税)◉約 束(本体1500円+税) ◉戦場のサブちゃんとゴン(本体1800円+税) が原作という。
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「祈りの延命十句観音経」(横田南嶺著、春秋社)
http://kitakamayu.exblog.jp/21821238/
2014-03-13T14:20:25+09:00
2014-03-13T14:20:22+09:00
2014-03-13T14:20:22+09:00
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BOOK
「祈りの延命十句観音経」(税込定価:1,050円)は、日頃お世話になっている大本山円覚寺派(臨済宗)の横田南嶺管長の最新著作。ありがたくもご本人から送っていただいた。
本書を読むと、横田南嶺管長の根っこにあるのは「衆生無辺誓願度」(しゅじょうむへんせいがんど、「生きとし生けるものは限りないが誓ってこれを救っていこう」)という仏教の根本的な教えであることが分かる。
そして、東日本大震災、半年後に故郷の紀伊半島を襲った大水害を契機に「『延命十句観音経』を少しでも多くの方に弘めることこそ、私に与えられた天命かもしれないと思っています」との決意も理解できる。
宗教教育がなされていないので、仏教も含めて普通の日本人にとって、宗教は分かりにくい世界だ。しかし、「祈りの延命十句観音経」は、難しい話を自らの経験を踏まえて、誰にでも分かるように解説してくれている。 “仏教初心者”の「仏教入門書」としてもお勧めしたい本である。
突然の電話(「祈りの延命十句観音経」より転載)
そんなある晩のこと、気仙沼のお寺から私に電話がありました。面識の無いお寺ですので、何事かと思って電話に出ました。気仙沼は津波で大変な被害がありました。そのお寺でも大勢のお檀家が亡くなり、最近再建されたばかりの諸堂が、本堂の柱と屋根を残してすべて流されたそうです。そんな折に鎌倉から雲水が来て、私の「延命十句観音経」が届けられました。
和尚もどうしようもない絶望のどん底で、この「延命十句観音経」を唱えて頑張ろうと思ったと、涙ながらに語れました。こちらも驚きながら、お見舞いを申し上げ、私も必ずお参りさせていただきますと伝えました。和尚も臨済宗であり、僧堂で修行を積まれた立派な布教師でもあります。しかし、そんなどうしようも無いときには、やはり「観音さまどうか、お助けください」と祈ります。祈るしありません。
「延命十句観音経」は、円覚寺では幼稚園でも毎朝唱えるお経です。普段親しんでいるお経ながら、改めて観音さまのお慈悲に気がつかされました。
震災からちょうど2ヶ月の5月11日、円覚寺派被災寺院のお見舞いに私も出かけました。栃木、福島、茨城の寺院を回りました。途中で福島県いわき市の海岸に寄って津波の現場を目の当たりにしました。幾たびか映像で見たものの、実地を目にして言葉を失いました。大自然を前に、ただ謙虚に祈るばかりでした。
祈って何になるかと言われるかもしれませんが、それでも祈らずにはいられない日々です。亡くなった方々のご冥福と、避難所の方々が少しでも安らかに暮らせるようにと、そして、現地の復興と原発事故の収束をただただ祈っています。
それからは、本山で法話をする度に、専らこの「延命十句観音経」を講話していました。ほぼ一年、何十回と話すうちに、さらに短い意訳を口を衝いて出てまいりました。
【延命十句観音経と意訳】
〇延命十句観音経
観世音 南無仏(かんぜおん なむぶつ)
与仏有因 与仏有縁(よぶつういん よぶつうえん)
仏法僧縁 常楽我浄(ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう)
朝念観世音 暮念観世音(ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん)
念念従心起 念念不離心 (ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん)
〇延命十句観音経 意訳
観音さま
どうか人の世の苦しみをお救い下さい
人の苦しみをすくおうとなさる
そのこころこそ仏さまのみこころであり
私たちのよりどころです
この仏さまのこころが
私たちの持って生まれた本心であり
さまざまなご縁にめぐまれて
このこころに気がつくことができます
仏さまと 仏さまの教えと
教えを共に学ぶ仲間とによって
わたしたちはいつの世にあっても
変わることのない思いやりのこころを知り
苦しみ多い中にあって 人の為に尽くす楽しみを知り
この慈悲のこころを持って生きることが本当の自分であり
汚れ多き世の中で 清らかな道であると知りました
朝に観音さまを念じ 夕べに観音さまを念じ
一念一念 何をするにつけても
この思いやりのこころから行い
一念一念 何をするにつけても
観音さまのこころから離れません
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