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20年に1度の東総地方最大のお祭り「神幸祭」の準備開始 神幸祭の主要舞台を事前取材 「東大社や東大社式年銚子大神幸祭のすべての始まりはここからなのか」。千葉県香取郡東庄町宮本地区の「白旗の宮」の石宮の前に立ち、高ぶる気持ちを抑えながら、心の中でこうつぶやいた。石宮は棚田を挟み、東大社に接したツツジの名所・雲井岬と向かい合うような形で、ひっそりと鎮座されていた。![]() ▽由来は白い布を玉座に敷いたことから 「東庄町史研究第2号」によると「景行天皇の御代五十三年、天皇親しく皇子日本武尊東夷平定の跡を巡られ、上総国より海路当知に渡御、白旗の行宮に駐られること七日、十月庚申侍臣春臣命に勅して、八尾山に一社を営み、玉依姫命を祀きまつらしめ、東宮又は八尾宮と称え奉られたという。即ち現在の東大社である」が、東大社の創立ならびに由緒である。 *「白旗の宮」下の棚田 ![]() 「白旗の宮」の由来に関しては「東大社式年銚子大神幸について」(平成15年度 東庄町図書館学級講座)の中に「(白旗の宮の石宮付近に景行天皇は)船でお着きになり、そのところに行在所を設け、土地の乙女の織った白い布を玉座に敷いたので白旗又は白幡の郷、又幡敷の郷と呼ばれるようになったと言われ、現在白旗の宮の石宮が祀られている」と書かれている。 故郷を離れて早、42年。現在は北鎌倉に住んでいる。故郷を思う気持ちは人一倍強い。まだ見たことのない20年に1度、しかも千年の歴史を持つ第54回神幸祭(2010年4月10日、11日、12日)の記録を残そうと決意した。神幸祭は東総地方最大のお祭りと言われるだけに、とにかくスケールが大きい。東大社の神輿は、東庄町宮本から銚子市まで片道約30キロメートルを、2泊3日かけて渡御する。参加者は約3000人、費用は7000万円。 記録を残す目的は、神幸祭の次なる世代へのスムーズな継承を願ってのことだ。神幸祭の意義、意味を分りやすく記事と写真で、1冊の本にまとめたいと思う。昨年、還暦を迎えたが、気力体力はまだ十分ある。20年後は80歳である。どうなっているかは「神のみぞ知る」の世界だ。今回がラストチャンスだと思っている。 ▽御産宮・浜鳥居、山口宮三郎家などを訪問 目的に沿う本を完成させるには、事前の周到な取材が不可欠となる。しかも、東大社の創立ならびに由緒が、大和朝廷の日本統一、言い換えると日本の成り立ちに関係しているだけに、日本建国の歴史の基礎も学ぶ必要がある。生憎、この領域は無知に近い。北鎌倉に居を構え、週3日から4日は継続雇用で出社している。かなり、しんどい作業になることは間違いない。しかし、神幸祭の日程も決まった。既に東大社には、神幸祭に寄付した氏子の名簿一覧が張り出されている。 ![]() 待ったなし、「善は急げ」である。とりあえず3月23日から25日にかけ、*神幸祭の開催される舞台に足を運んだ。祭りのイメージを掴もうと考えた。東大社の飯田眞也宮司にご挨拶し、東大社を参拝した後、ポイントなる場所(「白旗の宮」→船曳→豊玉姫神社→雷神社→桜井御産宮・浜鳥居→小舟木神遭塚→山口宮三郎家→山口六兵衛家→渡海神社→外川港=お浜降りの場所)を訪れた。東大社常任理事で、東庄郷土史研究会会員の飯田佐武郎さんに案内をお願いした。 *「オウジン様の御神幸に何べんあった」が長生きの合言葉 神幸祭の内容(「東庄町史研究第2号」より) 満二十年毎に、四月八日の例祭を中心に、前後約十日間に亘って、式年神幸祭が執行われる。堀川天皇の康和四年(1102)、海上郡高見浦(銚子市高見一体)にわかに海鳴り起こり、震動月余に及んで止まなかったので、四月八日、総社たる當社の神輿初めて高見に幸し、祭祀を行うに及び、海上忽ち浪静まり、爾来大漁豊作が続き、天皇は総社玉子大明神の称号を賜ったという。 これにより毎年この日を以つて同地に渡御せられたが、天永元年(1110)に至り二十箇年一度の制とし、その間隔年桜井の浜(今の銚子市桜井町利根川畔)に神幸される事となった。式年の神幸は「大みゆき」とも言い、また「桜井みゆき」に対して「銚子みゆき」とも呼ばれる。 四月八日早亘神輿出御、地元青馬、宮本両部落青年奉…氏子並びに関係諸郷の芸能を先供とし、御手洗及び敷薦塚(諸持)を経て、桜井御産宮に着御、古来の祭典を奉仕、それより大利根の流れに沿い、二十有余の町内の送迎を受けつつ高神に至る。この間、小舟木神遭塚では、當社に格別縁故深い、小見川町貝塚の豊玉姫神社及び海上町見廣の雷神社両社の神輿も合わせ奉安して、厳かな祭典が行われる。 高神では渡海神社に御駐泊、翌日浪切旗を先頭に、外川の海中に渡御、続いて浜辺の広場で、厳粛盛大な祭祀が斎行され、裃姿の宮三郎以下山口一門が神輿に海水を濯ぐ儀がある。終って神輿は旧跡を経て、山口宮三郎(一般にミヤサブという)宅に渡御される。先ず海水に濡れた水引絹を徹して、同家より献る新しいのに替え、祭典が執行われる。 水引絹は、本社鎮座地八尾山から涌き出でて北方に流れる水を引いて水田を耕す、今郡、谷津、羽計及び鹿野戸の四部落と、同じく東に流れる水によって耕作する、諸持、今泉、宮原及び桜井の四部落から、神輿に巻くために献る絹で、桜井神幸の時は北側東側交互に奉納する。 宮三家の祭典が終って、おすべらかし礼装の山口家の乙女が進んで、静かに扇を三たび挙げ、「おうじん(東大社)様お発ちませ」と申す声を合図に、神輿は遷幸の途に着かれる。かくして銚港神社に御駐泊、白幡神社等に御駐レンの上夫々奉迎の祭典が行われる例である。この神幸に際し、特に関係深い豊玉姫神社及び雷神社の神輿が同行されるが、往古は氏子十二郷より十二基の神輿が出で従われたという。 尚、この大神幸には、古来氏子並びに旧縁の各郷は、何れも時代風俗や伝統の芸能を持って供奉したが、現在は次の緒郷が奉仕する。即ち海上倉橋郷は露払いとして弥勒三番叟(現在千葉県無形文化財に指定)を演じつつ先頭を進み、東庄町羽計郷は大名行列、今郡郷は源頼朝の富士の巻狩、谷津郷は剣舞(53回から脱落)、石出郷は芸座(上芸座)手踊、今郡郷は芸座(下芸座)手踊、粟野郷・八重穂郷は虎屋大漁丸、銚子市緒持郷は剣舞赤穂浪士、宮原郷は芸座手踊りを以って、先供を仕奉る。 沿道は至る所両側に奉迎拝観の人垣を築く中にも、要所二十有余箇所には所謂関所を設け、殿様を始め家老、使者受、門番等の諸役が詰めて応対、行列を迎え、又関所の下手には座敷を構え、土地の老幼家族は勿論、全国各地から寄り集う親類縁者悉くここに会し、間近に神輿を拝し、心ゆくまで芸能を鑑賞して、長い春の日の移るのを忘れる。『オウジン様の御神幸に何べんあった』というのが、地方一帯の長生きの合言葉である。 ▽現場はまさに生きた教科書 わずか3日間だったが、今回の事前取材で、来年の神幸祭の記録出版に向けた大きな手がかりを得た。現場はまさに生きた教科書だ。雲井岬と「白旗の宮」の石宮の鎮座されている地域の標高はほぼ同じ。雲井岬からは眼下に水田地帯が広がっている。石宮からは林にブロックされて直接、水田地帯は肉眼で見ることはできないが、雲井岬と同じように下は水田地帯である。 神話は史実そのものではない。しかし、史実ではないからといって、神話を全否定するのは間違いだと思う。神話は何らかの史実を直接的ではないが、オブラートに包み込むような形で私たちにメッセージを遺している。これまで雲井岬の地名について、まったく意識していなかった。しかし、岬は「海中、または湖に突き出した陸地のはし」(広辞苑)なのだ。 古の時代、雲井岬および石宮の下の水田地帯は間違いなく*海底だったのだ。ちなみにこの水田地帯の一角にあるわたしの実家のある地区の名は「谷津」。「津」は「船舶の停泊するところ。ふなつき。港」(広辞苑)。「(白旗の宮の石宮付近に景行天皇は)船でお着きになり…」が東大社の創立ならびに由緒だと書いた。大和朝廷の代表者がわたしたちの故郷に日本統一というも目的を持って武装した船団を編成して訪れたのだ。 *縄文海進(じょうもんかいしん) 縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より3~5メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった。縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部でのみ発見されたことから海進説が唱えられた」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 創立ならびに由緒については繰り返しになるが、東大社史(昭和5年発刊)は「人皇第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊東夷を征し、凱旋の御途すがら伊勢の能褒野(のぼの)に崩じ給う。天皇御追慕の御情やる方なく、遂にその御平定の跡を親しく巡視せんと思立たせ給ひて、五十三年八月伊勢に幸し、転じて東海に入り、冬十月上総国に至り、更に海辺を巡り、当国八尾岡渡御し給う。群卿交々奏して、還興を勤奉れども、天皇は更に海路より陸奥国に幸し給はんと思し給ひ、行宮に駐りますこと七日、十月甲午春臣命に勅して一社を営み、玉依姫命を祀きまつらしめ給ひ、東宮又は八尾社と称へ奉るといふ。本社即ちこれなり」と記している。 日本統一に向けて東奔西走する景行天皇と日本武尊の名前は「記紀神話」に登場する。「記は『古事記』、紀は『日本書紀』をさし、両書に載せられた神話を総称するときの呼称。…そのもっとも重要な柱は、天皇家の地上支配のいわれとその正統性を語ることにある。それゆえに、記紀神話は国家神話・王権神話と呼ばれ、天皇家の神話と呼ばれる…」(『日本民俗大辞典』 吉川弘文館) 古事記は712年(奈良時代)に完成した現存する日本最古の歴史書で、「神話・伝説・歌謡を含み、全編天皇家を中心とする国家統一の思想で貫かれている」(広辞苑)。全3巻。一方、日本書紀は、720年(奈良時代)に出来たわが国最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの事跡を漢文で記述した編年体の史書。全30巻。記紀神話によると、景行天皇の出生は紀元前13年、死去は130年12月24日。在位は景行天皇元年7月11日(71年8月24日)~ 同60年11月7日(130年12月24日)だ。在位中の皇居は奈良県の纒向日代宮。 *【史実の年表】(『日本の歴史02 王権誕生』「講談社 寺沢薫」より) 57年 正月、倭の奴国王が(中国の)後漢に朝貢し、光武帝より印綬を授かる(「『後漢書』東夷伝」福岡志賀島で発見された「漢」倭奴国王)<弥生時代中期> 210年ごろ 卑弥呼を倭国女王に共立し、「倭国乱」終わる。<新生倭国=ヤマト王権の誕生と年(王宮)の発生>(奈良纏向遺跡の建設と庄内式土器の発生)<弥生時代後期> 248年 この頃、卑弥呼死す。男王を立てるが国中服さず、卑弥呼の宗女で十三歳の台与が女王となり国中安定する。台与、(中国の)魏使張政らを送還し、魏帝に男女生口(奴隷)三十人などを献上する。<古墳時代前期> 266年 台与政権終わり男王立つ。(纏向石塚古墳、纏向ホケノ山古墳)<古墳時代前期> 270年前後 この頃、安定化した(権力や経済力の象徴である)巨大前方後円墳の築造始まる。(奈良・箸墓古墳の築造)<古墳時代前期> ▽数十隻の武装船団が航行 景行天皇の足跡と意味について、東総歴史研究同好会会員で元千葉県大利根博物館長の大木衛氏は「東庄の郷土史第21号」(2005年東庄郷土史研究会編)に寄稿した「第五十四回 東大社式年銚子大神幸の意義と系譜」と題する論文の中で、次のようにとても分りやすく解説されている。 「東国地方の蝦夷を治めるため、焼津を経て、浦賀水道で、海神の怒りで暴風となったので、妃の弟橘姫が海に身をなげて、尊を無事、上総(恐らく木更津市)へ上陸することができた。次いで、日本書紀の記録のように、上総から房総半島を経て、九十九里を眺ながら、現在の飯岡町から八日市場市に開口していた椿海に、軍船として数十隻の武装船団が航行したと考えられる。当時の地形と地名から、太平洋の荒波を避けて湾入していた。椿海は下総台地の奥地にある。東庄方面へ航行し、その折に飯岡の玉ノ浦や旭市の芦戸(網戸)を通過したことが読みとれる。日本武尊の船団は数十隻と考えられ、東庄町で最も香取の海に近い船曳の地に舟を陸上に引き上げての作業を行った地と考えられる。地形的に、現在の谷津(筆者・野口の出身地)か今郡にかけての旧溺谷の雲井岬に近い地に上陸したと考えたい。軍船には二十数名弱が乗員とされる。船団に鏡をかけ、武装した大和国家の先兵に対して、戦わずして服従したことが日本書紀の記録から読みとることだができる」 ▽海中渡御は禊の儀式 「日本古代文化の探求 古事記」(社会思想社 上田正昭・編)に、外川の海中に渡御に関係する興味深い記述があった。 「まわりを海に囲まれた日本では、当然、海を対象とする祭祀儀礼が、古来さまざまに行われてきた。たとえば、太平洋側の、三陸海岸から房総・湘南沿岸にかけての地域では、春先から秋口にかけて、浜降りとか潮迎え、お船祭、天王祭などとよばれる、海辺を祭場とする祭りがさかんに行われる。町の高み、あるいは山中に鎮座する社の神輿を海岸に降ろしてきて、水際の仮屋で祭典を行い、神輿を海に入れて揉み合ったり、神霊を船に奉安して海中渡御を行ったり、あるいは、岬や島にある奥宮へ渡御をし、帰途船の競漕をもよおしたりする。神輿を浜に降ろす、あるいは神輿を海中に入れる理由については、おおかたの土地では、神さまが年に一回なさる禊の儀式だといい、夏場にこれを特に行うのは、災厄を海に流す意図があるからだと説明している。が、また、その禊をする場所、仮屋を設ける場所は特に、遠い昔御祭神がはるか海上から流れ着いたと伝える土地が多く、それらの地では、浜降りは山上の神が浜へ降りるのではなく、御祭神が海からこの地に上陸された時のさまを再現するものだと言っている」 ▽祭神が海神の娘に納得 神幸祭の全体像を掴むには、現在の常識をベースに物事を考えてはいけない。古の時代、東大社の鎮座地は、南には椿海(九十九里海岸方向)、北には香取の海(利根川方向)の海岸線が迫っていたのだ。そして、船がヒトとモノの主要な運搬手段となっていた時代でもあった。その後の気候変動によって、海水面が下がり、椿海の海底は干潟八万石、香取の海の一部が、桁沼と呼ばれる豊かな水田地帯となった。東大社の杉の大木が林立する見事な森は、現在でも約1ヘクタールもあるという。このような東大社の森に象徴される下総台地の緑が育んだ湧水が、水田地帯へ農業用水を供給してきた。水引絹を神輿に巻くために奉納するのはきっと、このことへの感謝の表れに違いない。美味しいコメの重要な要素の一つが水である。わが故郷のコメは間違いなく美味しい。 *雲井岬から見た水田地帯 ![]() また、東国地方平定を主要命題としていた大和朝廷にとって、地理的にみて東北地方や甲信越地方への展開可能な東庄町は、格好の前進基地と想定された。地理的には遠く感じるが、「日本統一」というキーワードからすると、大和朝廷と東庄町の“距離”は極めて近かった。 ①祭神が玉依姫命(海神の津見大神の娘)である②東大社略記に「(東大社は)古来国家安泰、家内安全、五穀豊穣、大漁満足又授子安産の信仰の厚い神社である」と「国家安泰」「五穀豊穣」「大漁満足」の文言が盛り込まれている③堀川天皇の宣旨で神幸祭がスタートした―ことも、時計の針を巻き戻して、この地域の成り立ちを考えれば、容易に理解できるだろう。 ▽「ああ、おうじん(東大社)様の祭りだね」 ![]() 神輿を迎える銚子市の山口六兵衛家の氏神様の前には、東大神の名前が刻まれた石碑が建立されていた。また、外川港で漁師さんに「お浜降りの場所はどこですか」と訊ねた。すると漁師さんは「ああ、おうじん(東大社)様の祭りだね」といって、その場所を指差してくれた。神幸祭の正式名称が「東大社式年銚子大神幸祭」となっている理由も、この一言で納得である。 ![]() 今回の事前取材では、かねてから疑問に思っていたことに対する、幾つかの答えをもらった。とはいっても、わたしの神幸祭、古代史に関する知識は、今尚はなはだ貧弱である。そうした中で、心強いのが東庄郷土史研究会と東総歴史研究同好会の皆さんの協力である。24日、銚子市内に1泊したが、東庄郷土史研究会と東総歴史研究同好会の有志の方々に、懇談の席を設けていただいた。この席でも貴重な助言を頂いた。これからもいろいろとご教授をお願いしたい。 *東庄郷土史研究会と東総歴史研究同好会の有志との懇親会の様子 ![]() *この記事は「東庄の郷土史」に寄稿した文章に加筆したものです。
by kitakamayunet
| 2009-05-13 19:06
| 式年東大社銚子御神幸祭
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Comments(4)
始めまして
最近東庄周辺の神社と調べていて 貴ブログの記事を拝見いたしました。 この地域や神社の感じがよく伺えて とても参考にさせていただいています。 「白旗宮」は東大社と共に 非常に重要なお社だと感じたのですが、 ネット上に他に全く資料がなくて、困っています。 何処に鎮座しているのか 東大社西方だというのは分かるのですが 具体的に何処なのか分かりません。 大変勝手で申し訳ありませんが、 鎮座地の座標軸をお教え願えませんでしょうか・・・。 申し訳ありませんが、是非ともよろしくお願いいたします。
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おうじんさま 興味深く拝見しました 外川まで車とばし
浜降り 撮影 ミヤサブまで見学して 館山市へ帰宅しました この景行天皇の行宮跡 わが館山市にありますよ 大字湊字大神宮 子安神社 古代の国府津です 西隣が総社 鶴谷八幡宮(関東の三鶴)です 淡の水門 と 言われています ご参考までに
お社さん、「このブログを見たたものです」と言って、東大社(0478-86-4405)に連絡すれば場所を詳しく教えてくれますよ。コメントを見落としてしまいました。申し訳ありません。
コメントありがとうございます。一昨日は山口宮三部家の45代目が女将の食事処「新橋」http://kitakamayu.exblog.jp/11530274で酒を飲み、昨日は東大社を参拝しました。銚子に住む義兄のお通夜、告別式に参列するために「新橋」の近くにある「銚子ブラザホテル」に一泊しました。
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