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(千葉県香取郡)東庄町は大和朝廷の「前進基地」だった! 【走水神社】(神幸祭の主要舞台を事前取材②) 「これ、興味があるんじゃないかと思って」。妻から渡された走水神社のポイントガイドに眼が釘付けになった。このポイントガイドは、彼女が知人からいただいたもので、走水神社の社務所窓口に置かれたものだという。時期は3月23日から25日にかけ、神幸祭の事前取材のために帰省した直後のことだった。この事前取材で東庄町は大和朝廷の前進基地との仮説を立てたが、ポイントガイドには、日本武尊の神奈川県から千葉県への進撃前夜の経緯が記されていた。日本武尊はなんとわたしの住んでいる鎌倉から走水を経て、故郷の千葉県に船で渡ったというのだ。*(千葉県香取郡)東庄町は大和朝廷の「前進基地」だった!http://kitakamayu.exblog.jp/11530274/ ![]() ![]() 【走水神社・ポイントガイド】 景行天皇の御代,東征中の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は,古代東海道をたどって来たり走水から船で上総へ渡ろうとしたが,暴風雨に阻まれ,立ち往生してしまった。このとき,同行してきた弟橘媛(オトタチバナヒメ)がみずから入水して海神の怒りを鎮め,航海の安全を図ったという伝説にちなみ,創建された古社。日本武尊は,航海に先立ち当地を「水走る」と称えたことから走水の地名が起こったという。また,日本武尊は,わが身を犠牲にして海を鎮めてくれた弟橘媛を偲び,御所ヶ崎に祭る一方,村人の敬慕に謝し冠を下賜されたといわれる。村人はこの冠を石棺に納め,その上に社殿を建立して尊を祭ったのがはじまりと伝わる。明治43年,近くの御所ヶ崎に祭られていた弟橘媛は走水神社に合祀された。境内に弟橘媛の顕彰と航海の安全の祈願を込めて奉納された「舵の碑」がある。 ◆名所◆走水は「古事記」や「日本書紀」にも出てくる地名で,古くは馳水とも書き,足柄峠を越えて相模の国に入った古代東海道は,鎌倉を経て走水に至り,ここから海路をたどって上総の国へ通じていた。走水神社はそのゆかりの地。境内にある包丁塚は、走水の住人であった大伴黒主が日本武尊に料理を献上した故事に由来して建てられたもの。 ◆まつり◆例祭は十月十五日。七月下旬に行われる夏祭りには、御座船ほか十隻ほどの船で神宮輿の海上渡御があり、御霊旗の神事が行われ、玉串が海中に投じられる。 ![]() 弟橘媛の記念碑 弟橘媛は日本武尊の后で、記念碑に刻まれた碑文(「さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて と ひし きみはも」=「さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」)は、『古事記』によると、弟橘姫が海に身を投じる際に詠んだとされている。 ![]() 仕事だとかいろいろと用事が立て込んでいたが4月13日、矢も盾もたまらず走水神社に向かって車を飛ばした。桜の季節は既に過ぎ、葉桜を含めた新緑が目にまぶしかった。走水神社に到着して、まず驚いたのは走水神社=相模の国(神奈川県・三浦半島)と、富津市=上総の国(千葉県・房総半島)の距離の近さだ。東京湾口部に位置する浦賀水道を挟んだ両者の距離はわずか6~7キロメートル。走水神社からはほぼ真正面に富津市が見えた。浦賀水道は現在、1日あたり 700隻もの船舶が往来する世界有数の海上交通路である。しかし、浦賀水道の航路としての重要性は今に始まったことではなかった。 上総、下総は駅路にしたがって都に近い方からの順番 「律令国家が形成された八世紀初頭には、武蔵国は東山道に属していたから、東海道は江戸湾を渡ることになり、文字通りの海の道であった。安房・上総・下総の房総三国は東海道に属していたが、武蔵国は奈良時代末期の宝亀二(七七一)年までは東山道に属していたので、当初の東海道本道は相模国の三浦半島から江戸湾を横切って房総半島に達していた。このことは、日本武尊の馳水(走水)の渡海説話に反映されているが、下総が房総半島の北部にあり上総が南に位置するのも、古い時期の駅路にしたがって都に近い方から上・下の順になっていたからである」(「街道の日本史19 房総と江戸湾」=川名 登編 吉川弘文館) 「今日「東海道」というと、江戸時代の五街道の1つとしての東海道を思い浮かべますが、古代における「東海道」には2つの意味がありました。その1つはもちろん道としての東海道ですが、もう1つは地域区画としての東海道という意味です。古代の律令時代には、日本は五畿七道(ごきしちどう)という行政区画に分けられていました。五畿とは、大和・山城・摂津・河内・和泉の畿内五国のこと、また七道とは東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という7つの区画を指します…都から、伊賀、伊勢、志摩、尾張、参河(みかわ)、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、上総、下総、安房、常陸の14カ国がそれにあたります。ですから、これらの国々の国府(国司が政務をとった役所)を通って平安京(京都)にいたる道が、街道としての東海道ということになります。古代には、この国府と国府を結ぶ道を駅路といい、駅路には30里(16km)ごとに駅家(うまや)が設けられ、東海道には、それぞれ駅馬10疋がおかれていました…」(横浜国道事務所HP=東海道ルネッサンス http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/)
by kitakamayunet
| 2009-05-29 15:09
| 式年東大社銚子御神幸祭
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Comments(3)
古代の東海道を日本武尊の遠征ルートに取るのは、木下教授の説ですが、、、とても稚拙な話で合理的ではないと考えています。
現在平塚にて古代東海道の痕跡を発掘していますが、その幅9m程でこの幅の路を鎌倉に当てはめると、唯一朝比奈切通しが該当します。 平塚の道路遺跡は、この朝比奈から六浦に向けて古代東海道が在ると ぼ輔は考えるのです。 それだけではなく、東山道も海蔵寺の裏の大堀切が東山道で、幻の武蔵大路痕跡と考えます。
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
ぼ輔 さん、貴重なご意見有難うございます。参考にさせていただきます。
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