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古代の東海道は文字通り「海の道」だった! 【富津岬】(神幸祭の主要舞台を事前取材③) 安易な地名変更はアイデンティティの喪失につながりかねない ![]() 5月10日に故郷の鯉屋旅館で開催された2009年のレヴィン文化財プロジェクト(http://kitakamayu.exblog.jp/11534648/)に参加した後、浦賀水道を挟み神奈川県の走水神社と向き合う位置にある千葉県の富津岬を経由して北鎌倉へ帰った。当初は東京湾フェリー(金谷港―久里浜港、所要時間:35分)に乗り、東京湾を横断するつもりでいた。しかし、強風のため断念し、アクアラインを使った。 ![]() 富津岬の先端近くにある展望台から走水神社と思しき方向を眺めた。曇っていたのでクリアには見えなかったが、走水神社から富津岬を見たときと同様に、両者の距離の近さを感じた。同時に潮の流れの速さに驚いた。強い風に後押しされた波がまるで“ジェット海流”のごとく、走水神社から富津岬に向けて押し寄せていた。浦賀水道は古今を通じて、交通の要路であるという事実を再確認しながら、こう思った。 “ジェット海流”に乗って、日本武尊の武装船団は、あっという間に相模の国(神奈川県)から上総の国(千葉県)に進攻した。しかし、大型船をつくることのできなかった古代においては、天候が荒れると何日も足止めされていたのではないか。要路は天候次第で難所でもあった。今でも東京湾フェリーは、台風などが襲来すると運航を停止する。 東国平定という大命を景行天皇から受けていた日本武尊は先を急いでいた。海を鎮めるために何かの儀式があったことは、想像に難くない。日本武尊の后の弟橘媛が、入水して荒れ狂う海を鎮め、無事に渡ることが出来たという渡海説話にはやはり、根拠があった。富津市の地名の由来にはいくつかあるが、日本武尊が東征の際、龍神を鎮めるために身を投げた弟橘媛の衣が流れ着いたところから「布流津(ふるつ)」と呼ばれたことからだいう説がある。 日本武尊の東征と千葉県の地名の関係は、富津市だけに限らない。富津市周辺からリストアップすると、まず、弟橘媛の袖が流れ着いた地と伝えられている袖ヶ浦市。日本武尊が身を投げた弟橘媛を偲んで歌った歌(君さらず袖しからみに立浪のその面影を見るぞ悲しき)の「君不去(きみさらず)」に由来するという木更津市と君津市。日本武尊が東征のおり、太平洋の荒波が押し寄せ、鳴濤(なるとう)と名付けたという伝説に由来する成東町etc…。 「天国の風は、とてもあたたか」(http://d.hatena.ne.jp/originalk/20081106)というブログには「千葉県郷土史研究連絡協議会会長の川村優氏の研究によれば、千葉県には日本武尊を祀る神社が60か所もあるようです」との記載があった。かなりの数である。話は横道にそれるが、市町村合併などで市町村の名前が次々に変わる。それぞれの名前には由来があるはずだ。今回の取材で、安易な名前の変更はその地域のアイデンティティを失うことにもなりかねないので、避けるべきだと感じた。 【参考】 弟橘姫(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 日本武尊の東征に同行。走水(はしりみず)の海(現在の浦賀水道)に至った時、尊の軽はずみな言動が海神の怒りを招く。海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘媛は「私は夫である皇子の身に替わって海に入水します。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上に管畳八枚、皮畳八枚、絹畳八枚を敷いて、その上に座って入水した。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になった。彼女が持っていた櫛は、七日後、海岸に流れ着いた。現在の東京湾沿岸には、こゆるぎという地名や、袖ヶ浦、袖ヶ浜などという地名が多くあるが、これは弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説に基づいて名付けられた地名である。 媛を忘れられない尊は、『日本書紀』によれば碓日嶺(うすひのみね。現在の碓氷峠)、『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる地名起源説話である。 『古事記』では弟橘姫は海に身を投じる際、 さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母 と詠んだ。 「相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味である。相模の国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている。古事記にのみ存在する歌である。尊に対する感謝の気持ちがよく表れている。尊の「吾妻はや」という言葉とあわせると、ふたりは固い絆で結ばれていたことがわかる。 風土記の弟橘媛 常陸国風土記にも弟橘媛の姿は現れる。同書において彼女は橘皇后(たちばなのおおきさき)、夫の日本武尊は倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)と表記されており、尊は、大和から降ってきた媛と常陸の相鹿(あうか、現在の茨城県潮来市および同県行方市)で再会する。 弟橘媛を祀る神社 橘樹神社(千葉県茂原市本納) 上総に渡った日本武尊が、橘の木を媛の墓標としたのが由来とされる。式内社、上総国二宮 橘樹神社(神奈川県川崎市高津区子母口) 弟橘媛の御陵とされる「富士見台古墳」(神奈川県川崎市高津区子母口富士見台) 吾妻神社(神奈川県二宮町) 日本武尊は、海辺に流れ着いた弟橘媛の笄(こうがい)を吾妻山山頂に埋め、ありし日の命を偲びましたが、その場所が吾妻神社だと伝えられている。二宮の地名にも弟橘媛命の袖が流れ着いたとされる袖ヶ浦、袖を埋めたとされる梅沢(埋め沢)など由来がある。 走水神社(神奈川県横須賀市走水) 妻恋神社 (東京都文京区湯島) 熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)
by kitakamayunet
| 2009-06-12 11:10
| 式年東大社銚子御神幸祭
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