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東大社銚子神幸祭、千年の真実が今明らかに ![]() ![]() ![]() http://www.tsukubasanjinja.jp/) 「総(ふさ)の国の原風景」の原稿の執筆と写真の整理が終わったので、5月10日から11日にかけ、気になっていた筑波山を訪問した。北鎌倉の自宅から筑波山までは車で約3時間だった。筑波山を訪れるのは小学校か中学校時代の修学旅行以来である。 ![]() ![]() 筑波山の印象はすごくきれいな山であり、筑波山の壮大な森が水を育み、里の人々に生活用水や農業用水を提供していたことがよく分った。古代から人間が集積するだけの条件を備えていたわけだ。 男体山 ![]() ![]() ![]() それだけに大和朝廷にとっても、東北地方を征服するには最重要な地点だった。山頂から故郷の東庄町方面を見渡すと、古は利根川と霞ヶ浦が一体となった香取の海が洋々と広がっていたことが容易に想像できた。そして、海水面の低下により、その跡が広大な水田になった。 女体山 ![]() ![]() ![]() 「江戸時代には、江戸城鎮護の霊山として将軍家の崇敬が篤かった」というだけあって神社が驚くほど立派だった。これは東北地方の有力な諸大名に目を光らせる意味があったのだと想像できる。 筑波山神社から男体山山頂にある筑波山神社御本殿までは約1時間半かけて歩いて登った。ここから女体山山頂にある筑波山神社御本殿までは徒歩20分の距離だった。下山はケーブルカーを使った。乗車時間は8分。夜はゆっくりと温泉に浸かった。温泉からの眺望がすばらしかった。 第54回東大社式年銚子大神幸祭 -総(ふさ)の国の原風景- 神幸祭、千年の真実が今明らかに(帯の文章) 20年に一度、千年の歴史を持つ東総地区最大の例大祭を完全密着ルポ!テーマは万物生成の源への敬虔な祈りと深い感謝。2泊3日、往復約60キロの時空で展開された厳かな神事と華やかな時代絵巻の供奉。オオジン、オタチアレ!『原郷』回帰への果てしなき夢とヤマトタケル東征伝説に彩られた『千古不変の世界』。そこからは地域と日本の成り立ち、再生への確かな道筋が見えてきた。 目次 推薦の言葉 第77代東大社宮司 飯田 篤永 はじめに 第一章【神事ルポ】海は遥かなる異界であり他界 -神を畏れ、敬う素朴で真摯な祭祀- 文 野口 稔 写真 野口 玲 ・往古は十二基の神輿が出御 ・観客21万人の総力戦 ・火花散った関所のやり取り 第二章【芸能ルポ】華やかな時代絵巻に酔いしれる 文 片桐 務 写真 島村 国治 ・倉橋の弥勒三番叟(みろくさんばんそう) ・羽計の雲助と大名行列 ・今郡の源頼朝公富士の巻狩り ・東今泉の下座・手踊り ・宮原の下座・手踊り ・石出の下座・手踊り ・粟野・八重穂の大漁丸薬売り 第三章東大社は大和朝廷の前進基地 -東征伝説の舞台は陸奥国への最短路- 第四章 宮三部家のルーツは筑紫国の海神族 -親子2代、正統を追求した山口尚さんを偲んで- 第五章 「三社式年銚子大神幸祭」は歴史の改ざん -「東大社式年銚子大神幸祭」に戻すべきだ- おわりに *筑波山神社由緒 (筑波山神社HP http://www.tsukubasanjinja.jp) 筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。 その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。 第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。 ![]() ![]() 中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。 ![]() ![]()
by kitakamayunet
| 2010-05-20 06:24
| 式年東大社銚子御神幸祭
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