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白糸の滝(静岡県)は富士山の雪解け水(10・9・26) ![]() 鎌倉と所縁のある修禅寺への参拝は9月27日。南伊豆や西伊豆に行く際、いつも素通りしていたので、今回は気合いを入れて訪れた。修禅寺参拝後、修善寺温泉街を散策した。温泉街の中心を桂川が流れ、河岸には歴史を感じさせる温泉宿が建ち並んでいた。こじんまりとしていて清潔な感じのする温泉街だった。 ![]() ![]() ![]() ![]() しかし、鎌倉幕府の歴史を紐解けば、血なまぐさい過去が蘇ってくる。修善寺温泉には、鎌倉幕府を開いた源頼朝の長子で、鎌倉幕府第2代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)の墓がある。頼家は母、政子の実家の北条氏によって、幽閉され、暗殺された。 作家の岡本綺堂が、頼家の死にまつわる戯曲を書いた「修禅寺物語」の舞台がここ、修善寺温泉である。 血を血で洗う骨肉の争いは、これだけに留まらない。頼朝の異母弟の源範頼(みなもとののりより)の墓も修善寺温泉にある。範頼は頼朝に謀反の嫌疑をかけられ、ここに幽閉され、暗殺された。本格的な武家政権創設者である頼朝は、政権の基盤固めのために弟の義経も殺害している。そういう時代であったといえばそれまでだが、なんともおぞましい。 修禅寺物語 岡本綺堂 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1312_23045.html 「修善寺物語」 http://homepage3.nifty.com/rekigen/shuzenjimonogatari/shuzenjimonogatari.html 伝説を読む http://liimuu.web.infoseek.co.jp/newpage248.htm 源頼家の墓と指月殿 ![]() ![]() ![]() *源頼家(みなもとのよりいえ) [ 日本大百科全書(小学館) ] (1182―1204) 鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝(よりとも)の長子。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。幼名万寿(まんじゅ)、十万(じゅうまん)。1199年(正治1)父頼朝の死後家督を継ぎ、1202年(建仁2)将軍に就任した。 頼家は、妻の父である有力御家人(ごけにん)比企能員(ひきよしかず)を登用して、頼朝死後の幕府の体制を立て直そうとしたが、比企氏の勢力が強大となることを恐れた北条氏は、頼家の母政子と結んで、北条時政(ときまさ)、大江広元(おおえのひろもと)、梶原景時(かじわらかげとき)、和田義盛(わだよしもり)ら13人の有力御家人の合議制によって政治を進めることにし、頼家の独裁を抑えようとした。 その後、有力御家人間の主導権をめぐる権力闘争が激化し、北条氏が着々と勢力を伸張するなかで、頼家の将軍としての実権はしだいに有名無実化していった。そこで頼家は比企氏と結んで権力の回復を意図したが、かえって有力御家人の離反を招く結果となった。 1203年8月、北条氏は頼家が病気となったのを口実として権限を奪い、総地頭職(そうじとうしき)・総守護職を頼家の子一幡(いちまん)と弟の千幡(せんまん)(実朝(さねとも))に分割支配させようとした。 頼家は比企氏と図って北条氏を排除しようとしたが、逆に比企氏は誅伐(ちゅうばつ)され、この計画に加わっていたことを理由に頼家は将軍職を奪われ、伊豆国修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され、翌1204年(元久1)7月18日、北条氏による刺客によって殺された。墓は静岡県伊豆市修禅寺門前にある。 源範頼(みなもとののりより)の墓 ![]() ![]() *源範頼(みなもとののりより) [ 日本大百科全書(小学館) より] (?―1193) 鎌倉初期の武将。源義朝(よしとも)の六男。三河(みかわ)国(愛知県)蒲御厨(かばのみくりや)に生まれたので「蒲冠者(かばのかんじや)」とよばれた。幼時、藤原範季(のりすえ)の養子となる。兄頼朝(よりとも)が平氏追討の兵をあげたとき、頼朝に属してその部将となる。1183年(寿永2)弟義経(よしつね)とともに源義仲(よしなか)を京都に討ってこれを倒した。 続いて一ノ谷に平氏を破り、戦後、三河守(かみ)となった。やがてふたたび平氏追討のため中国から九州に遠征して、85年(文治1)平氏滅亡後、九州の経営にあたった。範頼は、頼朝・義経の衝突、義経の運命をみて、頼朝に対して努めて従順な態度をとった。しかし頼朝は範頼を疑い、建久(けんきゅう)4年8月、これを捕らえて伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽し、ついにこれを殺した。範頼の子孫は吉見(よしみ)氏を称し、南北朝ごろには能登(のと)(石川県)の守護となっている。 修禅寺( しゅぜんじ 、はてなキーワードから) 平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺だった。鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから当時は肖廬山と号した。 南北朝時代の康安元年(1361年)になって、畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1402年)には火災を蒙り、伽籃を全焼して寺は荒廃し衰退した。 その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が外護者として再興し、叔父の隆溪繁紹(遠州石雲院)が住して曹洞宗に改宗され山号も福地山と改められ今日に至っている。 伊豆修禅寺の宝物殿には真二つに割れた能面が所蔵されている。はこれを題材にして、源である。 ![]() 修善寺から西伊豆まで足を延ばした。雨模様だったが晴れ上がり、土肥近くからの富士山が見事だった。 ![]()
by kitakamayunet
| 2010-10-01 18:28
| 唯我独尊(コラム)
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