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「東庄ふれあいまつり」の帰途、成田山新勝寺を参拝:11・4 内容充実、参加費四千円は超お値打ちだった 12月3日、日本テレネット株式会社(京都市中京区、代表取締役:瀧 栄治郎)が運営するシニア向けSNS「Slownetスローネットが企画した「東京パワースポット江戸総鎮守・神田明神へ行こう!」(13時50分~17時15分)に参加した。「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」(http://www.kitakama-yusui.net/7/7fusano.html)の出版を機に、東大社のことをより深く知りたいと思うようになった。そのためには神道のことをもっと知る必要がある。スケジュールには1時間半の神職による講話が用意されていた。参加費は4千円(昼食なし、交通費自己負担)。少し高いと思ったが、神道の学習には絶好の機会だと考え、期待を込めて神田明神へ向かった。 13時40分ごろ、集合場所の神田神社(神田明神)境内にある「明神会館ロビー」に到着した。参加者はスローネットのスタッフ2人を含めて9人。清水祥彦禰宜の講話(「日本人として知っておきたい正式参拝と神社入門」)を聴いた後、、浄衣(じょうえ)をまとって社殿で正式参拝。引き続き、清水禰宜の案内で史料館を見学した。 講話の冒頭で日本人の宗教観についての説明があった。それによると米国の占領政策によって、日本人で神仏や宗教を信じる割合は全体の約3割。この割合は世界を見渡すと極めて低く、“ブービー賞”ものだと清水祥彦禰宜は嘆いていた。同感である。わたしは現在の政治の迷走や社会の混乱は、きちんと宗教を教えてこなかった戦後教育に、大きな原因があると常々考えている。目先の利害得失のみ考えてばかりいて、世相があまりに刹那的になりすぎている。 神田神社の祭神は一ノ宮(自然と生じた神社の序列において最上位にあるもの)は、大己貴命(おおなむちのみこと、だいこく様)」。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名を持つ。二ノ宮は「少彦名命(すくなひこなのみこと、えびす様)。三ノ宮は「平将門命(たいらのまさかどのみこと)」。三ノ宮一ノ宮と二ノ宮が、出雲系の神様である。かねてからその理由を知りたいと思っていた。 「関東は出雲系の神様が多い。(大和朝廷系の神様に圧迫されて)先端技術を携えて(当時は未開地だった)関東地方に流れてきた」と清水祥彦禰宜。10月17日、日光二荒山神社(http://kitakamayu.exblog.jp/15384065/)を参拝した。祭神は大己貴命、田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)で、やはり出雲の神様だった。 そういうことだったのか。疑問は氷解した。昨秋、「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」の事前取材で長野県の諏訪大社(http://kitakamayu.exblog.jp/12705964/)を訪れた際、前宮の御柱を実際に目の前にして、縄文(洩矢神)と弥生(建御名方神=たけみなかたのかみ、出雲系の神様)のせめぎ合いの記憶の伝承ではないかと考えた。これに建御雷神=大和朝廷系の神様がかかわる。講話のお陰で想像がいろいろ膨らむ。 11月3日に開催された「東庄ふれあいまつり」の翌日の4日、北鎌倉への帰宅の途中、成田山新勝寺を参拝したが、神田神社とは因縁がある。成田山新勝寺は寛朝僧正が、平将門の乱平定のため、祈祷を行ったとされる場所に建てられた寺院だ。だから、神田明神の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、祭神の平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多いとか。 正式参拝の内容も①手水→②修祓=お祓い→③祝詞奏上=神職が参加者に代わって明神様にご祈願→④巫女による舞の奉納→⑤福鈴=巫女の鈴による福のお授け→⑥玉串拝礼→⑦神饌拝戴=お神酒をいただき、お守りと授与品の受け取り-と、とても充実していた。 集合前、昼食は神田明神下の江戸前・天麩羅の老舗・みやび本店でみやび天丼(千円)をいただいた。さくっとしていてとても美味しかった。この界隈には数は多くないが、江戸の情緒を残したお店がある。とてもいい雰囲気だ。機会があればまた来たい。そういうわけで、参加費は四千円は超お値打ちだった。 *神田明神の歴史(神田明神公式HPより) 社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。 慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。 明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。 大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。 昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。 建御名方神(たけみなかたのかみ) 諏訪上社(すわかみしや)の祭神(大祝(おおはふり)は神(みわ)氏)。名義は水潟(みなかた)、また宗像(むなかた)というが未詳。『古事記』の神話(国譲り条)で、父の大国主命(おおくにぬしのみこと)の武力を代表する神として武甕槌神(たけみかづちのかみ)に手掴(てつか)み競(くら)べを挑むが、敗れて信濃(しなの)の諏訪湖に逃げ、そこで父や兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)の命に背かぬこと、また国外に出ないことを誓う。しかし、本来は出雲(いずも)には無関係な神で、この神話は、諏訪の新来神である建御名方神と、地主神の守矢(もりや)神や手長足長の神との闘争神話を転用したものという。また一説には、「景行(けいこう)紀」40年に信濃坂で白鹿(はくしか)となって出現し、倭建命(やまとたけるのみこと)に殺された山神も諏訪の神という。 (「日本大百科全書」小学館) 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 建御雷神とも記す。記紀神話に出てくる剣神。国譲りの使者となって大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを承諾させ、また神武(じんむ)天皇が熊野(くまの)上陸の直後に失神した際に、命ぜられて平国の剣の 霊(ふつのみたま)を降(くだ)し、建国の事業を助けた。その剣神である証(あかし)は、自らのかわりに剣を降したり、国譲り交渉で剣先扶坐(ふざ)の姿をとったりするところに明らかである。しかしその本源は甕(みか)ツ霊(ち)であり、それは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の火神殺害の神話で、甕(みか)ハヤ霊(ひ)とともに、あるいはその子として初現することから推定できる。この神の剣神化により、物部(もののべ)氏の剣神経津主神(ふつぬしのかみ)はその地位を失っていくが、経津主神は『古事記』にはまったく現れない。なお、この神はのちに鹿島(かしま)神宮の主神となり、藤原氏の氏神として奈良の春日(かすが)神社にも祀(まつ)られた。 (「日本大百科全書」小学館)
by kitakamayunet
| 2010-12-08 10:49
| 式年東大社銚子御神幸祭
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Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2010-12-08 12:01
タイトル : 銀杏が見事に色付いていた湯島天神と湯島聖堂:10・12・3
東京パワースポット江戸総鎮守・神田明神へ行こう!に参加 12月3日、シニア向けSNSスローネットのオフ会「東京パワースポット江戸総鎮守・神田明神へ行こう!」に参加する前、上野駅で降り、湯島天神を参拝した。銀杏が見事に色付いていた。神田明神前の湯島聖堂の銀杏も黄金色に輝いていた。オフ会の内容も良かったし、とてもいい一日を過ごすことができた。... more
Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2010-12-13 22:10
タイトル : 東大社銚子大神幸祭-総国の原風景-が神田明神書庫に
東京パワースポット江戸総鎮守・神田明神へ行こう!に参加 12月3日に開催された「東京パワースポット江戸総鎮守・神田明神へ行こう!」(企画・シニア向けSNS「スローネット」)に参加した際、講和と史料館の案内を担当された神田神社(神田明神)の清水祥彦禰宜に、お世話になったお礼に「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」(http://www.kitakama-yusui.net/7/7fusano.html)を献本した。 その清水禰宜から後日、「遙か千年の時空を超えて継承され...... more
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