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地震への備え―自分の身は自分で守る―東日本大震災① 超高層ビルの激しい揺れはまるで荒海のフェリー 家族がばらばら、頼みの携帯、メールはつながらず マグニチュード(M)9・0、震度7の1000年に1度といわれる巨大地震の発生当日の3月11日は、東京・新橋のシオサイトにある超高層ビルの18階でネット向けにニュースのリライトの仕事をしていた。超高層ビルは耐震構造となっている。だから、その分、激しく揺れた。2004年10月23日に発生した新潟県中越地震(M6.8、震度7)も同じビルで体験した。 途中までは「ああ、あの時もこんな感じだったか」と思った。しかし、時間がたつにつれて、その比ではなくなっていった。編集部門各フロアをつなぐはしご状の階段が激しく音を立ててきしみ出した。緊急地震速報を耳にしながら、テレビ画面を見た。震度7の数字とM8・8の数字が画面に出ていた。「嘘だろう」と思わず叫んだ。 *「時化の時、フェリーの乗っているような感じ」と言ったらいいのだろうか。最初の段階は横に揺れ、その後は縦にも揺れた。パソコンのマウスを扱う右の手のひらがじっとりと汗ばんできた。 11日は午後4時半までの勤務だった。夜勤担当者とバトンタッチするはずだったが、電車が運休してしまったので、夜勤担当者が出勤できず、ほぼ徹夜で巨大地震のニュース処理をした。翌12日も、午前8時過ぎまで職場で仕事をしていた。電車がようやく動き出したのが午前7時過ぎからだったため、早出担当者の多くが、出勤時間の午前7時半までには出社できなかった。 会社を離れ、新橋駅へ向かった。新橋駅の改札口は非常に混み合っていた。横須賀線は大船駅―逗子駅間しか運航していないことはニュースで知っていた。東海道線に乗って帰るつもりだった。東海道線は30分に1本の割合で運行しているとのアナウンスがあった。 ところが、東海道線のホームは長蛇の列で、電車は超満員。乗り込めるような状態ではなかった。というよりも無理して乗り込む気にはなれなかった。例え乗れたにしても、大きな余震が発生し、すし詰め状態のまま電車が立ち往生する姿を思い浮かべたからだ。京浜東北線が運行していたので、東海道線に乗るのは断念し、京浜東北線で帰宅することにした。ただし、桜木町駅までしか運行していなかった。横浜駅からは①地下鉄で、戸塚駅に出て、東海道線に乗り換える②京浜急行で逗子まで行き、横須賀線を使う③東海道線を使う―のいずれかを選択するつもりだった。 比較的混雑の少ない東京駅寄りの車両に乗って新橋駅を午前10時過ぎに出た。安全を確認しながらの超徐行運転だった。横浜駅には正午前に到着した。横浜駅に到着してまたまたびっくり。東海道線は上下線とも大混雑をしていた。 ホームで電車を待っていた時間と満員電車に乗っていた時間を合計すると約3時間。それに昨夜からほとんど眠っていなかった。職場のソファに少し横になってうとうとしただけだった。疲れたし、空腹を覚えたので横浜駅で下車し、ラーメンを食べた。さすがに午後1時近くになると東海道線の混雑も収まってきたので、東海道線に乗り、やっとの思いで帰宅した。 11日は携帯、固定電話、メールが使えず本当に困った。妻は横須賀市で仕事、近くに住んでいる次男は、埼玉で仕事、自宅には97歳と87歳の妻の両親が残されていた。家族がばらばらになってしまっていた。震源地に近い千葉県香取郡東庄町の実家ともまったく連絡が取れない。 妻と次男にメールを送った。送信完了の表示は出たが、返信がなかなか来ない。午後6時半に送ったメールの着信時間は12日の午前1時40分ごろだった。幸い、妻は横須賀市の同僚のお宅に泊めていただいた。次男はレンタカーを借りて14時間掛けて北鎌倉へ帰ってきた。両親も無事だった。 東庄町の実家の様子がわかったのは12日で、京浜東北線に乗るために、新橋駅のホームで並んでいる時だった。実家の近くに住んでいる姪とようやく携帯で連絡が取れた。姪によれば、震源地に近い東庄町は、電気、ガス、水道がストップしてしまったが、幸い、母や姉、同じ敷地内に住んでいる甥家族は無事だったとのこと。 しかし、実家は屋根瓦が落ちてしまい、母たちは裏庭にあるビニールハウスの中で一晩過ごしたという。15日は休みだった。見舞いに駆けつけるつもりでいた。しかし「気象庁は13日、東日本大震災の今後の余震活動見通しを発表した。3日以内にマグニチュード(M)7以上の余震が発生する確率は70%で、内陸や沿岸部で発生すると震度6弱、所により6強になると予想される。16日から3日以内では50%」(産経ニュース)を見て、帰省は取り止めた。もしものことがあってはいけないからだ。 *走水からの渡海は命がけ (第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさ)の国の原風景-より) 3カ月後の7月11日、走水神社近くの久里浜港からフェリーで、千葉県富津市の金谷港に渡った。日本武尊の時代の船は、長さが20~30メートル、20人から30人乗りと想定されている。これに対し、東京湾フェリーが運航している3隻のフェリーは、長さ80メートル弱、570~580人乗り。総トン数は約2800トンから約3500トン。バス16台、乗用車110台、トラック36台を搭載することが出来る。船の大きさや性能が全く違うから、比較の仕様がないが、それでも浦賀水道を船で渡る感触を得たかった。 前夜から強風が吹き荒れていた。午前6時過ぎに東京湾フェリーに電話で確認したら「現在は運行しているが、これ以上強くなると運休する」とのことだった。運休するかどうかの判断は風速で、風速18メートルが一つの目安だ。これに風向き、うねりなどを考慮し、決定するという。 デッキで写真を撮ろうと思ったが、船が大きく揺れて、立っていることが出来ない。やむなく客室に入り、最前席に座った。高波が次々にフェリーの船首にぶち当っては、砕け散っていった。その度に波しぶきが、客室の窓ガラスを覆い、視界がを悪くなった。船体が波に持ち上げられる。その直後に海底方向にすうーっと引き込まれる。胃がむかついてきた。 30年以上前、長崎市に住んでいた時の悪い記憶が蘇った。義父に連れられて、五島列島近くまで小さな漁船で、釣りに行った時のことだ。漁船に乗った海釣りは、初体験だった。ひどい船酔いをした。釣り場までは片道4時間近くかかった。しかし、今回は乗船時間が約40分だったので、何とか持ちこたえることができた。海が荒れると、浦賀水道の渡海は、現在でも大変なことを痛感した。日本武尊の時代の渡海は命がけだった。
by kitakamayunet
| 2011-03-15 22:21
| 東日本大震災
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Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2011-03-16 08:05
タイトル : 東大社神幸祭の始まりは地震と津波―東日本大震災③
巨大地震発生時、その時わたしはどこに―東日本大震災② 東日本大震災が1000年に1度の巨大地震であると知った瞬間、東大社式年銚子大神幸祭のことを思い浮かべた。900年前に始まったこの例祭の目的は、銚子地方を襲った大地震と大津波を鎮めることにあった。 東大社御鎮座略記は「平安時代の堀川天皇の康和四年、下総國海上郡の高見ノ浦(現在の銚子市高神村外川地方)の海上で、突然、雷と稲妻が発生した。昼も夜も海は荒れ、高い波は天にも届きそうで、大地も振動し、数日間も続いた。この地方の人々は恐れおののき東西に...... more
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