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カテゴリに「東庄と鎌倉」を新設(2012年1月15日) ![]() 過ぎ去った歴史のことで「たら‐れば」の話しをしてもせんかたない。しかし、もし、源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島へ流罪にならなければ、わが故郷の東庄町(千葉県香取郡)と鎌倉の関係も別のものとなっていただろう。伊豆国の*蛭ヶ小島は、現在の静岡県伊豆の国市であるとされている。伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩10分の距離にある同市蛭ヶ島公園内には頼朝・政子夫妻の像が作られている。 *源頼朝の流刑地として知られる。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明(ウィキペディア・フリー百科事典) これまで、何度も蛭ヶ島公園近くを車で走っていたが、1月9日、ようやく頼朝・政子夫妻の像に対面した。実を言うとお恥ずかしい話しだが、歴史に疎いので、蛭ヶ小島は流罪の連想から、離れ小島のような場所を考えていた。実際の蛭ヶ島公園はのどかな田園地帯に立地していた。蛭が多かったことから付いた名といわれている。ウィキペディア・フリー百科事典によれば「平安時代の蛭ヶ島一帯は水田で、水田の多い湿地帯のなかに島状にある微高地であると考えられる」 ![]() ![]() ![]() 律令制で刑罰を定めた法律によると、流罪は政治犯などの重罪人を遠くの国や島に追放したもの。配流地によって3段階に分かれ、伊豆国(静岡県)・安房国(千葉県)・隠岐国(島根県)・土佐国(高知県)・佐渡国(新潟県)などが遠流、信濃国(長野県)・伊予国(愛媛県)などが中流、越前国(新潟県)・安芸国(広島県)などが近流となっていた。配流者に妻や妾がいる場合は同伴を許されていた。 1159年(平治元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の命乞いで、伊豆国(蛭ヶ小島)への流罪となった。この地で約20年間を過ごし、1180年(治承4年)、源氏再興の兵を挙げる。 伊豆の流人 (ウィキペディア・フリー百科事典) 伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。流人とはいえ、乳母の比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている。なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承2年(1178年)頃のことであると推定されている。 (ウィキペディア・フリー百科事典) 源頼朝(「鎌倉の観光ポータルサイト」カテゴリ「鎌倉の歴史上の主な人物」より) 源頼朝(1147~1199)は、初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町辺りで誕生、北条政子の夫。母は熱田神宮宮司藤原季範の娘。頼朝の幼名は「鬼武者」。義朝の三男として生まれたが源氏の嫡流として育てられた(母が正室の子であった為)。平治の乱に敗れた父・義朝は鎌倉に落ち延びる途中で殺され、頼朝は捕らえられ、伊豆の蛭ヶ小島に島流しとなった。そんな中で、伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結婚。 治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートをきった。木曽の従兄弟・木曾義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。建久三年(1192)に征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。建久10年(1199)正月13日に落馬がもとで亡くなる。頼朝が亡くなった後は、源氏の運命は悲惨なものであった。政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの政治から遠ざけられ、最後には非業の死を遂げた。その後の政治を継いだのは、政子とその一族の北条氏であった。 結局、頼朝が長い雌伏の後に築き上げた源氏の幕府は、三代でその幕を閉じたのである。鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行して、武士の棟梁でありながらその真面目さはまさに偉大な政治家でもあった。
by kitakamayunet
| 2012-02-04 15:42
| 東庄と鎌倉
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