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鎌倉で3宗教合同の復興祈願祭-東日本大震災⑰ 3月11日、鎌倉市の若宮大路沿いにあるカトリック雪ノ下教会大聖堂で、鶴岡八幡宮、鎌倉市仏教会、鎌倉市キリスト教所教会が主催の宗旨・宗派を超えた3回目の「東日本大震災~二年目の祈り~追悼・復興祈願祭」が開かれた。 この日は午後1時半までの早出の勤務だった。会社からカトリック雪ノ下教会大聖堂に駆けつけたら、午後2時半からの祈りの式典に間に合った。式典には仏教者約150人、市民約300人が参加し、震災発生した時刻の午後2時46分に参加者全員が黙祷を捧げた。同時刻に鎌倉市内の仏教寺院と教会で鐘が鳴らされた。 一緒に黙祷を捧げていると2年前の巨大地震の発生当日の記憶が蘇ってきた。あの日は東京・新橋のシオサイトにある超高層ビルの18階でネット向けにニュースのリライトの仕事をしていた。耐震構造となっているから、超高層ビルは激しく揺れた。記憶は第54回東大社式年銚子大神幸祭の*洋上渡御、**強風の時の東京湾フェリーへの乗船体験とも重なっていた。 *【外川浦お浜降り】浪切旗掲げ、初の洋上渡御 (「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」より) 神幸祭のメーンイベント会場である外川浦(銚子市漁業協同組合外川支所周辺)への到着は、午前8時を少し回っていた。ここで御輿のお浜降りと関所での芸能披露が同時進行する。眼前の光景は「壮観」の一言に尽きた。既に万単位の大観衆で埋め尽くされ、数え切れないほどの大漁旗が、海風を受けてバタバタとたなびいていた。外川関所の手前には、これまで目にすることのなかった銚子市や東庄町の特産品を並べた露店も列をつくっていた。銚子御輿連合会のメンバーが、喜々とした表情を浮かべて続々と集まってくる。老若男女、すごい人数だ。3社の神輿を担いで外川浦や最終日に銀座通りを練り歩いてくれる強力な“助っ人”集団である さてそのお浜降りの神事だが、昭和45(1970)年に開催された第52回神幸祭までは、砂浜で祭典を行った後、神輿を担いで海に入り直接、ご神体の禊ぎをした。しかし、昭和50年代初めに砂浜は埋め立てられ、護岸堤防が築かれてしまい、神輿は直接、海に入れなくなった。このため、前回から漁船に依代(金幣や御神体)を乗せ、護岸堤防の先にある外洋に出て、船上で潮を汲み、依代に注ぐ方法に変更された。だだし、前回は猛烈な強風で外洋に出ることが出来ず、外川漁港内の岸壁に係留した漁船上で禊ぎを行った。従って外洋上での禊ぎは、今回が史上初めてだ。 外川支所横での祭典が終了した午前10時半過ぎ、大観衆に見守られて、外川漁港から先導船(田辺丸)と護衛船(三浦丸)にはさまれるような格好で、依代と神官らを乗せた雷神社(第5伊東丸)、豊玉姫神社(清勝丸)、東大社(佐藤丸)が出港した。太陽も顔をのぞかせ、波静かな船出だった。しかし、護岸堤防から外洋に出た瞬間、海はその表情を一変し、自然の脅威をむき出しにして、浪切旗を掲げた佐藤丸に襲いかかった。上下左右、木の葉のように揺れた。手すりにつかまらないと振り落とされてしまう。濃い海霧で視界が遮られ、肉眼で確認できるのは、海とすぐ前を航行する清勝丸のみ。「浪切旗は古来最も神聖視され、これを棒じて進むところ、海水も自ら裂けて、神輿のために道を開くといわれる」という言い伝えがあるそうだが、とてもそういう状況にはなかった。 佐藤丸が到着した禊ぎの場所は、テトラポット(消波ブロック)を積み重ねた離岸堤防の少し先の沖合だった。陸からの距離は約200メートル。位置的には大杉神社の真下に当たり、この後に開催された山口家によるお潮汲み神事の場所の延長線上にあった。10時40分、船上に張られた結界の中で、禊ぎの儀式がスタートした。飯田宮司が海に転落しないよう、懸命に足を踏ん張って祝詞を奏上した。白丁が宮司を後ろで必死に支えた。続いて桶と柄杓にお払いをし、海にお神酒とコメを捧げた。その後、白丁が柄杓を巧みに操って潮を汲み上げ、この潮を依代の金幣に3回注いだ。11時5分、禊ぎは無事に終了した。10分後、佐藤丸は漁港に帰還した。大観衆が手を振って出迎えてくれた。護岸提の内は、出港時と同じように波静かだった。 短い時間だったが、海が持つ「恵み」と「破壊」の二面性を体験した。海の民は海の二面性を熟知しているから里の民より、はるかに信心深い。この信心深さが銚子市民のオウジン様に対する熱烈歓迎につながっている。9日に神幸祭のコースの下見をした際、浜降り神事の一部始終を見渡せる外川支所の2階事務所が、絶好の撮影ポイントであることを発見した。銚子漁業協同組合総務部の櫻田正美課長に「2階事務所を撮影場所として使用させてほしい」とお願いした。その答えは「『お神輿を上から見てもいいよ』と漁協の人間の口から言うことはできません」。理不尽なお願いをしてしまった。自らの不明を恥じた。 **走水からの渡海は命がけ (「第54回東大社式年銚子大神幸祭-総(ふさの)国の原風景-」より) 3カ月後の7月11日、走水神社近くの久里浜港からフェリーで、千葉県富津市の金谷港に渡った。日本武尊の時代の船は、長さが20~30メートル、20人から30人乗りと想定されている。これに対し、東京湾フェリーが運航している3隻のフェリーは、長さ80メートル弱、570~580人乗り。総トン数は約2800トンから約3500トン。バス16台、乗用車110台、トラック36台を搭載することが出来る。船の大きさや性能が全く違うから、比較の仕様がないが、それでも浦賀水道を船で渡る感触を得たかった。 前夜から強風が吹き荒れていた。午前6時過ぎに東京湾フェリーに電話で確認したら「現在は運行しているが、これ以上強くなると運休する」とのことだった。運休するかどうかの判断は風速で、風速18メートルが一つの目安だ。これに風向き、うねりなどを考慮し、決定するという。 デッキで写真を撮ろうと思ったが、船が大きく揺れて、立っていることが出来ない。やむなく客室に入り、最前席に座った。高波が次々にフェリーの船首にぶち当っては、砕け散っていった。その度に波しぶきが、客室の窓ガラスを覆い、視界がを悪くなった。船体が波に持ち上げられる。その直後に海底方向にすうーっと引き込まれる。胃がむかついてきた。 30年以上前、長崎市に住んでいた時の悪い記憶が蘇った。義父に連れられて、五島列島近くまで小さな漁船で、釣りに行った時のことだ。漁船に乗った海釣りは、初体験だった。ひどい船酔いをした。釣り場までは片道4時間近くかかった。しかし、今回は乗船時間が約40分だったので、何とか持ちこたえることができた。海が荒れると、浦賀水道の渡海は、現在でも大変なことを痛感した。日本武尊の時代の渡海は命がけだった。
by kitakamayunet
| 2013-03-12 10:45
| 東日本大震災
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Tracked
from 北鎌倉湧水ネットワーク
at 2014-03-12 07:51
タイトル : 神道・仏教・キリスト教の3宗教合同追悼・復興祈願祭3・11
3回目の東日本大震災~二年目の祈り~追悼・復興祈願祭 東日本大震災から3年目の3月11日、日本列島の各地で、犠牲者に祈りが捧げられた。鎌倉市でも雪ノ下の鶴岡八幡宮舞殿では、神道・仏教・キリスト教の3宗教合同による追悼・復興祈願祭が行われた。 人間は悲しいこと、辛いこと、苦しいことを忘れなければ生きていけない。しかし、再生へのステップに踏み込むためには、絶対に忘れてはいけないことがある。「宗教都市・鎌倉」ならではの追悼・復興祈願祭には大きな意味がある。 【祝詞】 【読経】 ...... more
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