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旭市で「大叔父・初太郎を語る」のタイトルで講演(10・30) ![]() 光栄なことに大叔父で「大利根用水の父」と呼ばれている野口初太郎が、『ようこそ農業のふるさと海匝へ 食の宝庫「かいそう」農業のガイドブック ちば』(発行 千葉県海匝農業事務所)で「海匝地域の農業に尽くした人物」の1人として紹介されている。ガイドブックは6月20日、佐原高校時代からの親友である宮崎丈史君からもらった。![]() ガイドブックでは、野口初太郎以外では農民の教化と農村改革運動を指導した大原幽学、落花生の栽培を普及させた金谷総蔵、椿の湖の新田干拓を指導した鐵牛禅師の3人が紹介されている。 大原幽学(大原幽学記念館ホームページより転載) 大原幽学おおはらゆうがくは天保、嘉永、安政にかけての混乱した世相の中、長部村(ながぺむら):現千葉県旭市を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革運動を指導し大きな事績を残した人物です。道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践指導しました。 前半生は各地を遍歴していたらしいのですが、その経歴は明らかではありません。天保13年(1842)には香取郡長部村に定住しています。天保4年頃から独自の実践道徳である性学の教説活動を始め、弟子として入門する者が次第に増えていき、研修施設や教導所が作られ会合や講義が行われました。 門人達は道友(どうゆう)と呼ばれ、長部村に腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導し農村の復興を図り、農業協同組合である先祖株組合(せんぞかぶくみあい)をはじめとして農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法を行って成果をあげました。 しかし急激な性学運動の発展と農民が村を越えて労働と学習を共にしたことが幕府の怪しむところとなり、幽学は幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858)3月8日、自殺により62歳の生涯をとじたのです。 金谷総蔵(千葉名物!落花生No.1より転載) 1845~1892。千葉県旭市に生まれた金谷は、房総に落花生を広めた人です。金谷家は代々干潟の開拓に力を入れていましたが、このあたりの土地は、サツマイモなどの作物以外、あまり農業には適した場所ではありませんでした。 この時、明治政府は積極的に新しい作物の導入に力を入れており、その中に落花生の栽培が奨励されていました。1878年(明治11年)に、千葉県知事(当時:初代県令)芝原和(しばはらやわら)が千葉県での落花生栽培を奨励すると、金谷はいち早く栽培を開始しました。 栽培と同時に「落花生蒔付連名簿」を作り、種子や肥料を無利子で貸し、落花生栽培や発展に一役かって出ました。このおかげで落花生の栽培面積は八街地方を中心に劇的に増加していきました。 1884年(明治17年)には「金谷総蔵落花生記念碑(伊勢大神宮境内)」が設立され、金谷の活躍が称えられました。 鐵牛禅師(東庄町ホームページより転載) 東庄町・干潟町・旭市・八日市場市にまたがる低湿地帯は、かつて海水が湾入していたが、沿岸流の発達により閉鎖され椿海という湖となった。 寛永16年(1639)頃から椿海の新田干拓が計画され、この大工事は寛文11年(1671)に完成した。この事業により干潟八万石といわれる良田2,741町歩が整備され、18か村が形成された。その中心となったのが鉄牛和尚である。 鉄牛和尚は、寛永5年(1628)山口県に生まれ、幼名を才之助といった。14歳のとき、因幡の龍峰寺に隋身し、提宗禅師のもとで学び慧覚と改名した。明暦元年(1655)長崎に赴き、宗祖隠元禅師に師事した。満治2年(1659)号を鉄牛、名を道機と改める。寛文6年(1666)印可を与えられ、のちに江戸・芝の瑞聖寺、向島・弘福寺を開山している。 鉄牛和尚は、椿海の開拓による功績で寄進された福聚寺(東庄町小南)で晩年を過ごし、元禄13年(1700)73歳で永眠した。
by kitakamayunet
| 2015-06-27 11:01
| 無名人からの伝言
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