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円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27 5月27日に北鎌倉湧水ネットワークのブログに掲載した「円覚寺結界「緑の洞門」の原形は残されていた!5・27」を読んでくれた伊藤正義・鶴見大学文化財学科教授がこのほど、「野口さんの記事は、尾根先端部を守った円覚寺の苦悩を解明した、インパクトのある内容です。この記事を読んで、開削に賛同する寺院関係者が皆無になること、風向きが大きく変わることを願っています」との感想を寄せてくれた。 記事は長文で、後半部分に書かれていたので途中までしか読まなかった方や、あるいはまったく読んでいない方のために、伊藤教授がコメントしてくれた部分の記事を再掲する。 昭和42年(1967年)の写真(撮影者 故・鈴木正一郎さん) ![]() 昭和40年(1965年)の写真(同) ![]() ![]() 昭和48年(1973年)の写真(同) ![]() ▽横須賀線開通は日清戦争前夜 下記の北鎌倉湧水ネットワークへのコメントにあるように、鎌倉市文化財部によって、円覚寺の結界は、鎌倉街道まで延びていたが、横須賀線開通によって先端部は削られてしまったと一般市民は思い込まされていた。しかし、鈴木正一郎さんの写真はこれまで市民にすり込まれていたこの誤解を打ち砕いた。 ◎北鎌倉湧水ネットワークブログへの書き込み(2016年4月5日) 【町内のものです】 ご苦労様です。 あの岩塊は、かつては線路の向こう側の県道あたりまで稜線が続いていたのであろうと思うのですが、線路の向こう側は現在宅地がありますよね? となると、「鎌倉市の貴重な文化財産」が宅地造成のために壊されたことになるわけで、大変残念なことだと思います。 そのあたりはどうお考えなのでしょうか?ご意見お聞かせください。 【野口回答】 「宅地造成のために文化財が壊されたことは大変残念」というお考えには同感です。ただ、何のためのご質問なのか意図をもっと明確にしてくださるようお願いいたします。「円覚寺の参道を横須賀線が走っています。あなたはどう思いますか」という質問に似ています。 横須賀縁は日本海軍の軍港都市として知られた横須賀への連絡を目的として建設され、1889年(明治22年)に大船駅 - 横須賀駅間で開通した。当時の仮装敵国は清だった。現在の北鎌倉駅付近では円覚寺境内を横切り、また鎌倉駅付近では鶴岡八幡宮の段葛を寸断して線路が敷設された。横須賀線が開通してから5年後に日清戦争が勃発した。 *横須賀線開通前後の国内外の情勢 1886年(明治19年) 陸軍大臣大山巌と海軍大臣西郷従道が内閣総理大臣伊藤博文に対して、横須賀への鉄道敷設を要求 1889年(明治22年) 大船駅 - 横須賀駅間(16.15km)開業。鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅開業。 1894年(明治27年) 日清戦争(日本と清が朝鮮に出兵して開戦) 1914年~18年 (大正3~7年) 第一次世界大戦(日本はロシアに出兵) 1916年(大正5年) 大船駅 - 鎌倉駅間複線化。 1927年(昭和2年) 季節限定の仮停車場として北鎌倉駅営業を開始 1929年 (昭和4年) 世界恐慌(ニューヨークのウォール街の株価が急暴落) 1930年(昭和5年) 北鎌倉駅本開業 1931年 (昭和6年) 満州事変 ▽横須賀線開通は下りホームから 軍事最優先の時代の中でなぜ、なぜ、円覚寺の結界は残されたのだろうか。わたしはかねてから北鎌倉駅の下りホームの幅の違いに興味を持っていた。そして、ここに「結界論争」の結論を導き出すヒントがあると考えた。そこで、JR東日本に問い合わせてみた。 ![]() JR東日本の回答のポイントは①岩塊がホームに食い込んでいる訳ではない②現在の下り線が開通当初のルートの可能性が高い③ホームの基本構造は現在も変わっていない―だ。この回答と鈴木正一郎さんの写真と突き合わせてみると、横須賀線の線路とホームは、円覚寺の結界の前を横切っている。というよりホームは結界を境にして、それ以上の円覚寺境内側へ踏み入れるのをやめている。 ![]() *JR東日本への質問と回答 質問(2016年5月1日) 北鎌倉駅を利用し、新橋まで通勤している鎌倉在住のサラリーマンです。前から疑問に思っていた北鎌倉駅の下りホームのことをお尋ねしたいと思い、メールいたします。 以下質問です。よろしくお願いいたします。 ①下りホームに岩塊が食い込む格好になっています。この理由を教えてください。 ②横須賀線は当初単線で開通したそうですが、単線は北鎌倉駅の場合、上りホーム側の線路だったのでしょうか。それとも下りホーム側の線路だったのでしょうか。 回答(2016年5月16日) いつもJR東日本ならびにJR東日本ホームページをご利用いただきましてありがとうございます。このたびのご意見につきまして、以下のとおり回答させていただきます。 ①のご質問には、②の回答と重複いたしますが、北鎌倉駅は複線化の後に開業いたしました。開業の際は線路脇にホームとして必要な幅を確保して新設しております。尚、ホームの基本構造は現在も変わっておりません。お客様の申されている箇所は、開業以降に列車編成変更の為のホーム延伸工事等によりホームの幅に差が生じている箇所の事と思われます。岩塊がホームに食い込んでいる訳ではございません。 ②のご質問ですが、お客さまのおっしゃる通り横須賀線は明治22年に大船駅から横須賀駅まで単線で開通いたしました。その後、大正5年に鎌倉駅まで複線へ改修しております。尚、北鎌倉駅は昭和2年に季節限定の仮停車場として営業を開始し、昭和5年に本開業となっております。古い事柄なので詳細な記録は見つかりませんでしたが、周辺楮物の情報を集約しますと現在の下り線が開通当初のルートの可能性が高いです。 ![]() ▽円覚寺中興の祖と山岡鉄舟 明治政府が、円覚寺の結界を意識して軍事路線・横須賀線を開設した理由だが、私は円覚寺の歴史から説明できると思う。円覚寺公式HPには「鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました」とある。 横須賀線開通当時の円覚寺の管長は、円覚寺中興の祖の今北洪川老師。横田南嶺管長は著書「禅の名僧に学ぶ生き方の知恵」(致知出版社)で、今北洪川老師を「明治の廃仏毀釈の中、仏法を守り通した」と評している。この今北洪川老師に参じたのが、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人で、かつ明治天皇の侍従・山岡鉄舟。山岡鉄舟は今北洪川老師らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。 時代は日清戦争開戦前夜、国家存亡の危機だった。今北洪川老師の脳裏には円覚寺にまつわる「元寇の役」の歴史が浮かんだはずである。苦渋の決断を迫られた今北洪川老師は、横須賀線が参道を横切るのを了承した代わりに、結界を守ることにした。今北洪川老師は山岡鉄舟を通じて、自らの意向を明治政府に伝えたと推測される。山岡鉄舟は明治21年(1888年)、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命した。前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。明治天皇は、高殿から目送された。 ▽結界意識し、円覚寺門前を一直線に走る軌道 ![]() 伊藤正義・鶴見大文学部文化財学科教授は、神奈川新聞によれば「旧陸軍陸地測量部や国土地理院などが作成した年代別の地形図7枚を比べ、同線の開通や複線化、宅地化などを経ても尾根の形状に大きな変化が見られないと結論づけた」と主張している。鈴木正一郎さんの一枚の写真が、伊藤正義教授の結論の正当性を裏付けてくれている。 【権兵衛踏切から撮影】 ![]() 【円覚寺第2踏切から撮影】 ![]() さらに言えば南北朝時代(1336~1392年)に制作された円覚寺境内図(円覚寺蔵、重要文化財)に描かれている尾根は、緑の洞門を含む現在の尾根と大きく変わっていない。この境内図は円覚寺の公式HPに掲載されている。権兵衛踏み切り付近から円覚寺の踏切の先までは横須賀線が結界の先端を境に円覚寺側に踏み込まないように総門前を一直線に走っている。このラインは円覚寺境内図とピタリと重なっており、横須賀線は結界を意識して線路が敷かれたと考えるのが自然である。円覚寺境内図(円覚寺蔵)を拡大すると、白雲庵と尾根の位置関係が分かると同時に尾根の先端が鎌倉街道まで達していいないことが容易に理解できる ![]() 昨春お会いした円覚寺の有力役員は「円覚寺の参道を横須賀線が通っていることをご存知か。(円覚寺は国策に協力した過去がある)。緑の洞門の地権者として安全を確保しなければならない。恒久的な安全対策にはトンネルを切り崩すしかない。そうすることで、救急車も通れるようになる」と主張し、鎌倉市道路課と二人三脚で緑の洞門切り崩しに突き進んでいる。 「親鸞 上・下」「蓮如物語」などの著作があり、仏教に造詣の深い直木賞作家・五木寛之は「なにもないところに、高野山の寺院ができたんじゃなくて、大むかしから聖なる場所というのがあって、そこに寺院が建てられてきたということになる。…そういう場所は、なにか日本列島の、地熱とか地場とか、あるエネルギーの噴出口であったり、吸入口であったり、鍼灸でいう経絡の、ツボのような場所でもある」(「霊の発見」五木寛之著/鎌田東二対話 平凡社刊)と述べ、神社仏閣が人間で言えば急所に当たる重要な場所に建立されているとの見解を示している。 緑の洞門消滅は円覚寺建立の根源の喪失にもつながりかねず、創立700年余の円覚寺の歴史に大きな傷となる。円覚寺には開削方針の速やかな撤回と、追加文化財の指定手続き早急に取ることをお願いしたい。2万8千コマに及ぶフィルムの中から今回の写真を発見できたことはある意味では奇跡的なことである。鎌倉をこよなく愛し、長期間にわたって鎌倉を撮り続けた鈴木正一郎さんの思いが、緑の洞門の保全を願う市民の思いと重なり合ったとしか思えない。 【結界】(デジタル大辞泉の解説) 1 仏語。 ㋐教団内の僧が戒律を犯さないように一定の区域を制限すること。また、その区域。外からの出入りを制限する摂僧界(しょうそうかい)、衣を脱いでも過ちとならない摂衣界(しょうえかい)、食物の貯蔵が許される摂食界(しょうじきかい)がある。 ㋑密教で、修法によって一定の地域に外道・悪魔が入るのを防ぐこと。 ㋒仏道修行の障害となるものの入ることを禁じること。また、その場所。 ㋓寺院で内陣と外陣(げじん)の間、または外陣中に僧と俗の席を区別するために設けた木の柵(さく)。
by kitakamayunet
| 2016-06-03 11:07
| 洞門山宅地開発問題
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