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【北鎌倉六国見山の赤道考】①鎌倉市が所有し維持管理 昭和40年(1965) 11月21日:故・鈴木正一郎さん撮影=鎌倉中央図書館所蔵 ![]() 六国見山にはかつて農道などに使われた赤道が縦横に走っていると書いた。その根拠は約50年前までは、六国見山は主に段々畑と雑木林、それに一部が針葉樹林で構成されていたからだ。この事実は台峯緑地保全会の川上克己さん、28年間にわたって鎌倉を撮り続けた故・鈴木正一郎さん、「緑と共生する街づくり」(北鎌倉台土地区画整理組合)の写真から明らかだ。赤道は、周辺集落の人たちが農作業や山に薪取りのために使われていた。多分、集落間の往来にも利用されていたと推定される。 【台峯から六国見山を望む】 昭和35年(1960):川上克己さん撮影 ![]() 【六国見山は鎌倉の野菜の重要な供給基地だった!】 「私が記憶しているのは『六国見山のふもと高野は、嘗ては広大な段々畑だった』『そこでは鎌倉で消費する野菜の殆どを賄う程だった』あるいは『嘗て鎌倉は消費する野菜の全ては市内で賄われていたが、その多くは、ここ高野から出荷されていた』といった意味合いの文章です。出所は思い出せませんが、昔の高野の白黒写真の解説のようだったという記憶です」(友人の松本 芳路さん) 昭和43(1968)年10月20日:故・鈴木正一郎さん撮影(鎌倉中央図書館所蔵)![]() 昭和43(1968)年10月20日:故・鈴木正一郎さん撮影(鎌倉中央図書館所蔵) ![]() 高野台施行前昭和48年(1973)=「緑と共生する街づくり」(北鎌倉台土地区画整理組合) ![]() 開発中昭和60年(1988)=「大船の歴史」(北鎌倉台土地区画整理組合) ![]() 施行前後=「緑と共生する街づくり」(北鎌倉台土地区画整理組合) ![]() 【「里山ってなんだ!『やま』の手入れはなぜ必要なの?鎌倉の美しい里山継承プロジェクト3年間の足跡より転載】 【歴史の確認】六国見山は里山、段々畑と雑木林で構成 海抜147メートルの六国見山の名は、かつて相模、伊豆、武蔵、上総、下総、安房の六国が一望できたことに由来している。大船方面から見ると左側に広がる緑地で、右側には台峯が位置している。六国見山は鎌倉の典型的な里山で、1千年以上前から人間との営みの中で自然が成り立ってきた。1965年、六国見山の所有者が「北鎌倉台土地区画整理組合発起人会」を設立したことで、六国見山は大きな変貌を遂げた。区画整理事業の完成は2003年。この事業により六国見山に約350世帯が住む高野台住宅と六国見山森林公園が誕生し、人と自然の新たな関係がスタートした。 「…今から約一万年~八千年前になると氷河期が過ぎ気温も上昇し、海面の高さも上がって内陸部に海水が入り込みはじめ、海進現象がはじまっている。海進が最も進んだのが今から六千~五千年前の縄文海進期。海抜約二十メートルのあたりまで海岸が入り込んで、大船入江が形づくられた時代で、丘陵山裾まで海岸線が迫っていた。…弥生時代(約二千年前)になると海面が下降して海退現象が始まり、海水が引いたあとは湿地帯となっていた。弥生中期頃になると中国大陸で発達した水稲耕作と金属を持つ新しい文化が鎌倉地方にも伝わり、土器が使用されるようになった。やがて湿地帯が陸に変わり、水稲耕作に適した谷や低地のある日当たりの良い丘陵が新しい生活の場として選ばれたものと思われ、粟船山・台・鎌倉山などお丘陵地に遺跡が多く発見されている」(「大船の歴史」北鎌倉台土地区画整理組合) 多くの鎌倉市民が展望台を六国見山の山頂と思っているかもしれないが、それは違う。山頂は展望台から270メートル離れた北東の位置にある。展望台の高さは143.84メートルで、山頂は147.31メートル。途中に稚児塚があり、稚児塚までが六国見山森林公園(市有地)で、ここから先は私有地だ。川上克己さんが撮影した写真や北鎌倉台土地区画整理組合が編集した「完成記念誌」と「大船の歴史」に掲載された写真、先祖代々住んでいる人の証言によれば、六国見山は段々畑と雑木林、一部が針葉樹林で構成されていた。約60年間、手入れ放棄で森が荒れたため、中をうかがい知ることができなかったが、3年間の里山継承プロジェクト推進の結果、この歴史的な事実を明確に確認できた。 本書執筆の過程で、協力していただいた北鎌倉台土地区画整理組合の関係者から「わたしはこの土地に生まれ、里山の維持管理をする親たちの後ろ姿を見ながら育ちましたが、この歳になりやっとその価値が分かり始めたというボンヤリ者です。頭が下がります」とのメールをいただいた。やっていることが間違いではないことが分かり、とても嬉しかった。 【稚児塚】(「大船の歴史」) ![]() 『相模風土記』によれば「六国見ノ南方。山上ニアリ。上に石碑ヲ建。半ハ地中に陥入レリ。而ニ悉曇(しつたん、梵字)」ノ字仄カニ見ユ。染屋太郎大夫時忠ガ兒ノ墳ナリト伝フ。」とあり。古老の伝えによると、その昔、由井の長者染屋太郎大夫時忠公の三才の姫が鷲にさらわれて、その死体がこの地に落ちていたのを里人が見つけ知らせてところ、時忠公この地に立派な墓を造り、その菩提を弔ふため里に観音像を造立したという。今もこの観音像は多聞院に安置されている。 【六国見山と浅間大神】(「大船の歴史」) ![]()
by kitakamayunet
| 2018-01-12 12:34
| 鎌倉の美しい里山継承PJ
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タイトル : 【北鎌倉六国見山の赤道考】③かつての農道、今は市民の散策路に
【北鎌倉六国見山の赤道考】②昭和40年代までは段々畑と雑木林 山頂近くの尾根道からそれた赤道に打ち込まれた赤く塗られた境界杭 かつて鎌倉市民への最大の野菜の供給基地だった六国見山の赤道は、主に農道に使われたが、今も縦横に走っている。この赤道を使って大船、山ノ内、今泉台、明月谷、岩瀬方面から農民が畑を目指したが、その多くは手入れ放棄で、足を踏み入れることはできない。しかし、里山再生活動の結果、尾根道は鎌倉市内外から訪れる人たちのハイキングコース、あるいは近隣住民の散策路として親しまれている。...... more ![]()
タイトル : ナラ枯れ発生!六国見山のコナラ枯れる8・20
【北鎌倉六国見山の赤道考】②昭和40年代までは段々畑と雑木林被害急増の背景に燃料革命 8月20日、まちむら交流きこう(一般財団法人都市農山漁村交流活性化機構)の担当者から「(北鎌倉湧水ネットワークの里山再生活動のフィールドである)六国見山森林公園でナラ枯れの被害が出ていませんか」との問い合わせがあった。 ナラ枯れとはコナラなどブナ科の広葉樹が、集団的に急に枯れてしまう現象だ。ナラ枯れはカシノナガキクイムシ(カシナガ)がブナ科の広葉樹に集中的に穿入した時に持ち込むナラ菌が木の中で拡がり、水分などを吸い...... more
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