カテゴリ
全体 花の里山六国見山(設立25周年企画) プロフィール 会則 里山再生は究極のSDGs 速報 講演・寄稿・メディア シリーズ・団塊世代 春夏秋冬 レヴィン文化財プロジェクト 無名人からの伝言 式年東大社銚子御神幸祭 シリーズ「里山ってなんだ!」 鎌倉の美しい里山継承PJ 東庄と鎌倉 鎌倉の世界遺産登録 ガイドブック・プロジェクト 東日本大震災 鎌倉団塊プロジェクト 団塊探偵団(神奈川新聞) 唯我独尊(コラム) 現代に生きる禅の精神 野口農園 交遊録 台峯&マンション問題 インターネット新聞JANJAN Yahoo!セカンドライフ 大船観音前マンション建設 洞門山宅地開発問題 北鎌倉テニスコート築造問題 北鎌倉の恵みプロジェクト 個性派ショップの優れもの BOOK mixi入口 イベント案内 北鎌倉匠の市・展 イベント月別一覧 リンク 北鎌倉グルメ散策 北鎌倉でお買い物 男の料理教室 璃史写真館(非公開) 発見!体験!もう一つの鎌倉 六国見山日照権伐採 「元治苑」にマンション建設 璃史&七緒(非公開) 里山・六国見山と生物多様性 未分類 タグ
六国見山
里山再生
有機無農薬栽培
循環資源
循環農法
円覚寺裏山
北鎌倉
円覚寺
まちむら交流きこう
鎌倉アジサイ同好会
里山
森林・山村多面的機能発揮対策交付金
間伐材
新型コロナウイルス
夫婦桜
地ビール
ヤマザクラ
日本さくらの会
台風15号と19号
ヒノキの器
以前の記事
お気に入りブログ
最新のコメント
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
◎郷土史は、郷土の未来を指し示す羅針盤 高度経済成長以前の北鎌倉の街並みや暮らしを生き生きと再現 ![]() 篠田さんが「ききがき」をされていた時期は、日本の高度経済成長のスタートの時期と重なる。高度経済成長は、日本の政治・経済・社会の仕組みを大きく変えた。北鎌倉もその例外ではない。「北鎌倉ききがき」には、高度経済成長以前の北鎌倉の街並みや暮らしが生き生きと語られている。 篠田さんはあとがきで「精確で具体的な近現代史の事実を丹念に積み上げると、おのずから郷土の未来は立ち現れてくるのに、そういう郷土史を持たず知らず、為政者はいつも独りよがりな未来図を白紙に描いて、市民を乗せてきました。郷土史、とりわけ近現代の郷土史は、郷土の未来を指し示す羅針盤ですし、町の政治の師とすべきものです」と述べている。同感である。 篠田さんからは「『北鎌倉ききがき』の紹介・引用は『留意しながら』ならば、一向に構いません」という条件付で了解をいただいた。今後、北鎌倉を紹介するときに、個人情報などに細心の注意を払いながら、「北鎌倉ききがき」の内容を引用させていただくつもりだ。 【篠田健三さんからのメール】 北鎌倉湧水ネットワーク御中 冠省 HPで貴会の活動を知りました。50年間、北鎌倉に住んでいるのですが、途中の40年余りを余所で過ごし、昨年久しぶりに北鎌倉の実家に戻りました。 五十年前の聞書を冊子にまとめたものが、どうやら貴会のお役に立つかもしれない、と気が付きましたので、郵送します。ご笑覧ください。 篠田健三 「北鎌倉ききがき」目次 はしがき 円覚寺の木戸 山之内の地名の変遷 閻魔堂のこと はやりがみ半僧房 古き町並み 円覚寺の茶店 東門の甘露水 洪鐘祭 小坂郵便局 古道 駅の界隈 段葛の桜 冨陽庵の百観音 北鎌倉幼稚園 寺の飛地 和田塚・六地蔵の由来 大正大震災の被害 禅寺の本堂 八雲神社の夏祭 山之内道 寺の旦那 管長の人柄 寺男 小沢屋の祖先 震災のあとの寺々 寺の変遷―寺地整理・震災・戦中・戦後 閻魔堂 上門中と下門中 禅寺の正月 葬儀の盛り物 四日会 十日会 付録(山ノ内古地図など) あとがき ![]() ![]() *日本の高度経済成長(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)は、日本経済が飛躍的に成長を遂げた1950年代半ばから1970年代初頭までの経済成長を指す。現在では、「昭和」(戦後) の代名詞として、この頃の映像資料が使われる事が多い。 1950年代中ごろ、日本の復興は戦前並みに達し、高度成長が始まった。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。この経済成長の要因は、良質で安い労働力、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定制)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成や、戦中の軍需生産のために発達した技術力が挙げられる。1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家の中で第2位に達した。この経済成長は世界的に見ても希な例であった。この驚異的な経済成長への憧れや敬意から、日本を手本とする国まで現れた。(マハティール政権下のマレーシアなど) しかし、こうした経済成長の背景で環境破壊を引き起こし、「水俣病」や「イタイイタイ病」、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が深刻化した。これは、何よりも国民が環境よりも経済成長を優先した結果であるといえる。しかし、高度経済成長期後半になると公害による死者が増え、自分の身にかかわるとなると公害に対する起訴が急激に増えてきた。 また、都市への人口集中による過密問題の発生と、地方からの人口流出による過疎問題が発生した。 この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を少しずつ促すことになった。 風潮としては、「大きいことは良いことだ」が流行語として流行り、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。 1971年のニクソン・ショックによる実質的な円の切り上げは、国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。1973年の第四次中東戦争をきっかけに、原油価格が上昇しオイルショックに陥ったことで戦後初めて実質マイナス成長を経験。その後の成長趨勢が明らかに鈍化したことから、高度経済成長はここで終わったとされている。その後は安定成長期(1973年~バブル崩壊の1991年まで)へと移行した。
by kitakamayunet
| 2006-06-30 16:29
| BOOK
|
Trackback(1)
|
Comments(4)
![]()
タイトル : 諫早で出会っていた!
「北鎌倉ききがき」(非売品、篠田健三著、晩香書屋) 諫早から知床への旅―part1破壊と再生の分かれ道― 二一世紀に向けて http://www.kitakama-yusui.net/5/u.html... more ![]()
新宿生まれの私にとって、鎌倉は単なる歴史的文化財の宝庫であった。しかしここ数年の北鎌倉とのお付き合いを通し、この地は関東人にとって
故郷ではないかと思うようになってきた。江戸は徳川幕府による三河方面の文化圏ではないだろうか。鎌倉こそ関東幕府として関東人の素地ではないかと思う。質実剛健な禅宗の精神世界が心地よいのは、どうも単なるお寺詣でではないように思える。
0
こうした貴重な郷土史を未知の方から送っていただき、正直驚いています。こういうことが起こるのが、ネットワーク時代ということなんですね。
![]()
是非、読ませてください。コピーなど取れれば尚嬉しいです。
![]()
泰山木さん
鎌倉は、地頭職などの派遣で、ある意味、日本の武士の故郷です。 遠くは鹿児島の島津も鎌倉の出身。中国の毛利も、確か元々の出身は、鎌倉幕府に安堵された厚木の出の筈。 徳川は、三河の前は栃木か埼玉ですし(武士だったかどうかは知りません)、結局は、今の日本の地誌を紐解くと、全ての道は鎌倉に通ず、なのだと思います。 ただ、もっと遡ると、多分関東経営は、元々西国の平氏によって為された様でもありますし、混沌としてしまいますが。 いずれにしろ、日本の社会体制の変革と言う意味でも、今の日本の故郷は大和に非ず、鎌倉にあり、と言えるのではないでしょうか。
|
ファン申請 |
||