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無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(3) 取材ノート(4)―「不屈の八十年 自叙伝」から② 大利根用水に未練残し、両総用排水事業に関わる 大利根用水の東幹線のルートを巡って、キャリアの上司とノンキャリの初太郎が大激論を戦わせた。 「君の計画では地元の負担があまりに重過ぎる。だから抵抗が大きい。これでは同意が得られない。着工は無理だ」。激昂した耕地課長が机をたたいて、初太郎に計画の修正を迫った。 「他方面よりの報告を信じ、自分の部下の報告を信じないでは困ります」。初太郎は毅然とした態度で反論した。 最終的に現場に精通した初太郎の意見が通った、しかし、サラリーマンの世界は、正しいからと行って組織の勝者にはなれない。言いくるめられた上司は、面子を潰されたと考え、絶対に部下の初太郎を許すはずがないからだ。きっと、上司と気まずい状態が続いたに違いない。 そんな時に両総用排水事業の所長に、初太郎の能力を正当に評価してくれていたかつての上司、田中清彦が就任した。田中清彦が初太郎を両総用排水事業に誘う。初太郎と両総用排水事業との関わりが始まる。運命といっていいだろう。 一三 両総用排水事業時代 昭和十八年、大利根用水東幹線の“ガン所”東城村、粟野地区をやっと陥落させて工事も進めることが可能になったそのころ、両総用排水事業は大利根用水事業と異なり、ほとんど反対もなく、農地開発営団の経営により、着工することになった。所長として事業所に着任することになった人は鹿児島県出身の農学士、田中清彦である。この人は元千葉県耕地課に技師としておられた当時、わたしが市原郡の山間部において、特殊工事を施工中、数回見に来られたこともあった。後日、千葉県を去り、大分県耕地課長としておられた時、わたしに「大分県は地形も千葉県と同様で面白い工事もあるから、是非来県して手伝ってくれ」と懇願された。しかし、老年の両親のことも考えて遠方行きは不可能であるとお断りした。 ▽両総用排水事業所長が割愛申し出 田中清彦が両総用排水事業の所長として赴任してから間もなくして、県の田原耕地課長より「両総用排水事業の所長から君を割愛してくれとの申し出があったがどうか」との話があった。(過去の因縁があるので)「そら来た」と思ったが、自分の創業にかかる大利根用水事業を途中で捨てがたく思いしが、一日、佐原町の田中所長の下宿を訪ね、話し合った。田中所長より「君も役人生活は長いことであり、このへんで辞めて自分の方に来てくれ」と懇請されたので、承諾することにして県に辞表を提出した。 昭和十八年九月、県を退官してすぐその日、農地開発営団本部(当時、深川永代橋東際にあった)に出頭して辞令を受け、それから帰宅後、あらためて佐原町にあった事務所に出た。田中所長のほか、米田、石津技師、数名の職員がいて着工の準備中であった。 その内営団で、大利根用水事業の下流工事を営団が代行することになって、わたしは本部に招かれ、当分東京事務所の兼務を命じられ、その工事を担当することになった。 懐かしい旭町の大利根用水事業所へ再び勤務するようになり、構内の別棟に事務所を定め、私が主任で部下に中川技師ほか数名の技術者、その他の傭員とで海上、匝瑳両郡の下流の設計調査を行い、工事を施工しつつあったが、そのうち両総事業の方が本格的に着工することになったので、その方に専属となり、東京事務所の兼務は解かれ、わたしより後に県より営団に転じた鈴木○技師長に後事を託し、昭和十九年六月、両総事業所専属となる。 ▽両総用排水事業所長に就任 そのころ、田中所長は既に理事となり、営団の本部詰めとなっており、後任所長は米田技師であった。米田技師は農学士で元県の技師であった。昭和十九年七月十二日、着工式を挙行することになったので、米田所長を助け、式場の整備はもちろん、香取神社へ神官依頼、会場に充てる女学校およびナオライ(直会)所としての木内楼への交渉など一式わたしが行った。 当日、利根川の堤防内予定地に式場を設け、本部より村上理事長ほか数名、その他県官地元関係者参列の上、厳粛に起工式は挙行された。 工事は排水路である大戸川から始まるので、新川敷に当たる用地買収から始め、大戸駅付近より着工する。 戦争のため、内地の土木作業者が少ないので、朝鮮人の請負業石田組の手により着工することになったが、敗戦色日に日に濃くなり、資材の欠乏はもちろん、労働者が少なくなり、三里塚より挺身隊の応援を受けるなど、随分苦労があった。 その内、事務所の倉庫が火事となり、その責任を取ってと言うことでもないと思うが、米田所長は本部詰めとして引き上げられ、後任所長にわたしが就くことになった。 ▽増産奨励のため、天皇陛下が両総用排水事業地区ご視察 そのころ、敵機の空襲はますます猛烈を極め、彼我の空中戦は頭上に展開され、ほとんど戦場のごとく事務所の構内にも銃爆を受けるまでに至り、執務中、防空壕に逃げ込むことも縷々(るる)あり、工事の現場も一日に数回、空襲のため当否のやむなきこともあり、従って、工事の進ちょくも足踏み状態となる。昭和二十年八月十五日、突然無条件降伏の放送を聴く。敗戦に対する落胆と空襲に対する安堵と複雑な心情である。 一方、家庭には妻むつ子病状いよいよ傾死の状態となり、ついに同年十月八日、死亡する。内外多事の時である。工事の方は利根川より用水引入すべき橋門工事に取り掛かったのであるが、これは建設省の委託工事として施工することになる。 昭和二十一年六月六日、戦後の増産奨励のため、天皇陛下は両総用排水事業地区ご視察に幸行なされた。本部より村上理事長、その他の職員、県よりは川口知事、その他の県官地元関係者、町村長、団体長など佐原大橋河畔に陛下をお迎えした。 まず、建設省の加藤土木所長より、利根川改修状況の説明を申し上げ、次いでわたしが出て、テーブルを挟み、陛下と向かい合い、テーブルの上に広げた地図により、両総用排水事業計画の説明をし、ご質問にお答えし、また現場を指示して説明申し上げた。陛下はなかなか大きな事業であるが、資材の入手には何かとご心配の点、ご下問あり、それぞれお答え申し上げた。 説明お○○○の上、お立ちあり、と列者の「万歳」の声に送られ、佐原駅に向かわれた。 ▽農地開発営団は、解散 戦後も労力および資材はますます不足となり、その収集のため、東奔西走した。 数カ月後、事業所の陣容をあらたむることになり、事業所を南北二カ所に置くことになり、営団の本部も理事長および理事など大幅異動があった。 このころ、ひで子の父、中島○三は理事として本部に勤めておられたが、わたしは面識がなかった。知らずに会っていたかも知らないが、意識せずわたしは北部事業所長となり、新たに瀬戸忠武が所長に新任された。 北部の方は、利根川の閘(こう)門工事をはじめ、大戸川の排水工事ならびに用排水機工事など重要な工事も進めつつあったが、翌二十二年八月、農地開発営団は解散することになり、事業は国営により遂行することになる。 わたしは農林省に奉職せず、そのまま農地開発営団の閉鎖機関に属し、両総事業の精算主任を命じられ、数名の職員と精算、引き継ぎ事務に従事。昭和二十五年四月末、精算事業完了と同時に精算出張所を廃止して、本部に引き継ぎ完了の農地開発両総用排水事業閉鎖機関出張所主任を退職する。 ▽両総用排水事業時代に父母と妻を亡くす この両総用排水事業時代に父母と妻(むつ子)を亡くした。而して父はわたしが公用で農地開発営団の本部である新宿の三越デパートの五階に用務のため出頭し、そのところに宿泊せる晩、死亡したので臨終に会えなかった。 昭和二十一年秋、わたしが両総事業所勤務時代、終戦によって新之は除隊となり南洋から帰還したが、まずわたしのおる佐原駅にリュックを背負い下車し、間野の家へ寄って数年ぶりに会う。その時、間野の祖母は病床にあったが、孫が丈夫で還ったので、大変喜んだ。しかし、自分の死期の近きを悟ってか、新之に対し、親孝行をしろと諭していた。 新之はそれから銚子の実家に帰り、久方ぶりに祖父母と対面した。間野の母はその後、だんだん病重くなり、死の寸前にはわたしに対し、体を大切にして長生きしてくれと言い、また、医者に対しては、安眠ができるように計らってくれと覚悟の良さを示していた。この母はそのように理性の優れた人であった。わたしにとっては伯母であり母でもあった。
by kitakamayunet
| 2007-02-12 19:13
| 無名人からの伝言
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タイトル : 無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(5)
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(4) 二〇〇七年一月十二日、千葉県干潟土地改良区の花香竹夫事務局長から「生前の野口初太郎の仕事ぶりを一番よく知っている」と紹介され、花香耕作さんを訪ねた。花香さんは千葉県干潟土地改良区の元事務局長。 一四 大利根用水連合時代 わたしは両総用排水事業の職を辞めてから腰弁生活は切り上げ、代書業を始める考えでその関係の勉強もした。当時の市長、加瀬道之助にも相談せるに、応援するとのことであったから着々準備をしていた。市長は新庁舎ができるのでその構内に代書業...... more
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