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無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(11) 取材ノート(12) 【放浪時代】 郵便局を辞め、志を抱いて再び上京 東京府内務部土木課に就職決定 銚子では浜田簿記学校に入塾、柔道も学ぶ 初太郎の自立に向けての離陸前夜と位置付けられる。時代遅れの質屋に見切りをつけて銚子に実家に戻った明治三十八年(一九〇五年)ごろから明治四十一年(一九〇八年)に東京府内務部土木課に就職するまでの時代である。傷心の帰郷を果たしたものの、そこには初太郎の居場所はなかった。三年という短い期間ではあるが、理想と現実のギャップに苦しむ血気盛んな青年初太郎の苦しみを垣間見ることができる。 当時、実家では父親が山本醤油店で働き、実家の店頭でも味噌と醤油を販売していた。「親の厄介になり、ぶらぶらしていたが向上心には燃えており、親に厄介かけないで勉強したいと考えていた。浜田簿記学校があって英数学も教えると聞いたので勉強しようと入塾した」。この時代、楽しい思い出もある。眼科医の息子(三十代)が開いた柔道場で道生として稽古に励んだ。「だんだん上達して教える側になった。道生の数は一時、十数名に達し、賑やかになった。そのうちに免許状受けた。かなりこの時代は楽しかった」 そうは言っても親のすねかじりを続けられる状況にはなかった。「種々に生活や将来の道も考えつつあった折、郵便局のすぐ東隣の薬局の二男で(柔道場で生徒を一緒に教えた)寺島三蔵君より郵便局へ勤めぬかと話があった。渡りに舟と通信事務員の辞令を受けた」。日給は少額で三十銭だった。しかし、向上心に燃えている時代だった。「苦労してももっと伸びたい」。そう考えて郵便局を退職して上京することにした。 再上京の背景には柔道場で一緒に道生を指導した森常蔵と寺島三蔵の影響もあった。「寺島君は仙台の薬学専門学校へ入学のため離郷し、森君も何かやると言い出して出京の準備をした。三人は特に親しく交際をしていたが、いずれも前途の希望を持ち、固い握手をして別れた。三人で道場時代に写した記念の写真がある」 上京した初太郎は再び伯母の家で世話になる。伯母の家は本所区から下谷区に移転していた。「相変わらず菓子店とカステラ製造をやっていた。大きなすりこぎを持ってカステラ製造を手伝いながらいろいろ方針を考えつつあった」。偶然、台湾巡査の募集があったので、応募した。採用試験は真夏に行われた。試験場は駿河台の中央大学。試験が始まるまで、校庭で長い時間待たされた。そのうちに気分が悪くなり、立っているのが苦痛だった。学科試験が始まってからも一層気分が悪くなり、途中退場を余儀なくされた。それから数日後寝込んでしまった。暑気あたりだった。 「遂に台湾行きは断念せざるを得なかった。もし、病気にならず台湾の巡査になっていたら、わたしの一生は丸っきり現在の境遇とは異なったものになっていたと思う」。向上心に燃え、もっと勉強したい。そう思っての再上京だったが、いつまでも伯母の家の厄介になっているわけにはいかない。「心苦しく、食うことを目的にどこか職を求めなければ」と思っていたら、伯父の甥の懇意な人が東京府の土木課の主席をしていて、この人の紹介で土木課への就職が決まった。身分は臨時職だったが、今後の努力次第では正規職員となり、昇進も可能だった。「とにかくこれで一人で飯の食える道が開けたわけであるから一安心して、後は時に応じ前進の道を開いていくことだと任地に赴いた」 辞令は下記の通り。 多摩川日野万願寺地先 堤防復旧工事中 工事雇ヲ命ズ、日給金六十五銭ヲ給ス 明治四十一年三月五日 東京府内務部土木課
by kitakamayunet
| 2007-08-25 15:24
| 無名人からの伝言
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タイトル : 無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(13)
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(12) 取材ノート(13) 【東京府時代】 日野町は忘れられない人生、第二の出発地点 勇気の裏付けに放浪時代の柔道鍛錬 主任技師の忠告を受け、土木学の習得を決心 東京市区改正局工務課への採用決定 身分は臨時職とはいえ、初太郎は東京府内務部土木課に就職、遂に念願の自立を果たした。最初の赴任先は、東京府土木課八王子区管内の南多摩郡日野町多摩川堤防復旧工事現場だった。在籍期間は約1年。短期では会ったが初太郎にとっては人生、第二の出発地点となる忘れ...... more ![]()
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