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無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(17) 取材ノート(18) 【千葉県時代】(4) 昭和10年、大利根用水事業遂に着工 県庁を去り、両総用排水事業に取り組む 長男の覇人、静岡高校入学の夢叶わず死去 ![]() ![]() 初太郎、妹らの紹介でせつ子と再婚 「(最初の夫とは死別し、佐原町の百貨店・奈良屋勤務の加藤勇吉と再婚した)くに子より昭和二年(一九二七年)の春ごろ後妻の話があった。(相手は)くに子と懇意である県教育課勤務の佐藤栄吉の細君と二人の心配で、千葉市在住で千葉無尽会社富山節子と婚姻することになった。同年の九月、式を挙げた」。富山家は兵庫県竜野藩の士族で、剣術師範の家柄だった。節子は先妻すず子の子どもたちを愛し、よき妻だった。長男の覇人は銚子の清水小学校を卒業すると同時に銚子に中学校がなかったので、八日市場にある匝瑳中学に入学した。ところが中学五年になったころから健康を害した。「卒業試験近くには一層悪くなり、遂に試験にも出られなかった。しかし、学校では卒業生として免状をくれた。理科系を選び、静岡高等学校を志望していた。病重く再起不能の容体となっても自身は回復すると思い、進学の希望を捨てなかった。大望を抱きながら遂に昭和十年(一九三五年)五月十五日、瞑目した。階下には祖父母が寝ていたが知らなかった。朝、上がってみて気付き驚いた。実に哀れで断腸の思いがした。中学生としての五年間は死ぬために勉強したことになった。残念至極である」 後妻の節子も1年後、薬効効なく不帰の客に 不幸は続く。「妻の節子はその当時、健康状態に異状はなかったが秋ごろから多少優れず、千葉の病院に通い、喉の治療などをしていたが、覇人が逝ってから丸一年、嫁して約十年、薬効効なく、月も同じ五月十二日、不帰の客となった。行年三十七歳。節子の母は看病のために来銚していたが、頼みにしていた娘に先立たれ一人寂しく千葉へ帰った。哀れで気の毒だった。いやいやながら義兄と同居したが、約一年後に義兄の家で亡くなった」 ■大利根用水の軌跡 昭和八年(一九三三年)大旱魃発生・収穫皆無1660町歩におよぶ 昭和九年(一九三四年)早害発生 昭和十年(一九三五年)県営大利根用水事業着工 二男新之、日大に進学 長男の覇人の死は、初太郎に大きなショックを与えた。「(二男の)新之は清水小学校を卒業すると同時に中学校へ進学するのであるが、長男の不幸が身にしみ、勉学立身より健康第一と考え、早く実務に就かせようと商業学校に入れることにした。商業校は競争率が高いので一応、佐原中学校を受験させたところ、合格した。さらに銚子商業の方も受験させたらこれも合格したので、初めの希望道通り、銚子商に入学させることにした」 新之は、幼少時は小柄だったが、銚子商の二、三年のころ旧に身長が伸び、同級生から“電信柱”と呼ばれた。銚子商卒業後は日立製作所に入社した。しかし、就職してみて大卒と待遇が違うことや将来性も考慮した結果、新之は大学進学を強く希望した。初太郎は「健康に自信がついたのならよかろう」と大学進学に同意した。新之は日本大学に合格した。昭和十六年(一九三一年)三月に予科を卒業し、法律学科に進んだ。 妹のくに子らの紹介で、三度目の結婚 昭和十五(一九三十年)年、初太郎は妹のくに子らの紹介で、三度目の結婚をした。「(相手は)市原郡五井町平田の立野家の二女むつ子。明治三十九年十二月十三日生まれ。昭和十五年三月四日挙式。翌十六年三月に三男の一誠が生まれた。わたしはそのころ大利根用水事業に没頭していたので家事はほとんど顧みることが出来なかった。一誠の妊娠中に五井町の義父が病死した。産月前にむつ子が実家に帰っていたので、一誠は五井町で生まれた。長女洋子は昭和十八年一月、銚子で生まれた。実家から義母がお産の手伝いに来てくれた。義母はいったん、平田の実家へ帰ったが、むつ子は産後、体の具合が悪く医薬に親しむようになった」 ■大利根用水の軌跡 昭和十三年(一九三八年)笹川揚水機場完成 昭和十五年(一九四〇年)大旱魃が発生するが、難航した平山トンネルが貫通し、大幹線用水路が完成。応急通水を開始(植え付け約1500ヘクタール) 「継母の手にかけるな』と言い残し、むつ子も冥眼 「その時分、わたしは自分が計画した大利根用水事業関係より手を切り、事業の性格が同じである両総用排水事業に関係することになり、佐原町に通うことになった。千葉県への在職期間は、明治四十四年七月より昭和十八年九月までの三十三カ年、大過なく勤められた。退官の折、大利根用水地域においては旭駅前のニコニコ楼で賑やかな送別会を催してくれた。また、県庁関係においては千葉市の長州楼で、耕地課長および職員による盛大な送別会があり、経済部長も列席してくれた」 ![]() 「事業が始まったばかりなので、多忙を極め子どもや病人の面倒を見てやれなかった。洋子の方は二階を借りていたお照オバサンが可愛がり、母親代わりに世話をしてくれた。しかし、むつ子の方は終戦前後の時期で十分な栄養も取れず、医者の手当ても不十分で気の毒であった。ある時、佐原の方でぼた餅を作ってやったら満足そうに食べた。その後また平田の母が来て看護してくれたが病は日に日に重くなり、本人も死を覚悟するようになった。『自分が死んだら子どもは二階のオバサンに世話になってもよいが継母の手にかけるな』と言って、昭和二十年十月八日、遂に三十九歳を一期として冥眼した。時局の関係で助けられなかった。残念至極であった。義母は葬儀を済ませ、寂しく帰郷した。義母は米寿の祝をやり八十九歳で亡くなった」 ■両総用排水事業の軌跡 昭和十六年(一九四一年) 昭和十五年(一九四〇年)大旱魃を契機に両総用水期成同盟連合(会長・十枝雄三氏)結成。千葉県が両総用水事業化を決定。 昭和十八年(一九四三年) 農地開発営団が新設され、この事業として両総用水が採択される。同年七月起工式。 昭和二十年(一九四五年) 戦争とインフレで工事中止。 昭和二十一年(一九四六年) 六月六日、昭和天皇行幸。両総用水事業、公共事業として認可。 昭和20年は慌ただしい悲惨な年だった さまざまな苦難を乗り越えてきた初太郎ではあったが、昭和二十年は特別に辛い年だった。【10、居所】の項で当時のことを「昭和二十年七月十九日の大空襲の折は、銚子の大半が焼け野原となり、新築した田中町の家も全焼してしまい、近所の知人に死者も多く出た。幸い、清水台の家が残ったので救われた。わたしは空襲のあったその日、一誠を背負い、浅間山の上から市内を眺めたが、銚子の大部分は焼け野原と化し、まだ所々焼けていたが、その悲惨な光景は今日でも目に焼きついている。約一ヵ月後、終戦となったが、むつ子はその後約2ヵ月後に亡くなった。その時、一誠は四歳、洋子は二歳だった。昭和二十年は日本国においても、わが家庭についても慌ただしい悲惨な年であった」とあらためて振り返っている。
by kitakamayunet
| 2007-09-28 09:13
| 無名人からの伝言
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