カテゴリ
全体 花の里山六国見山(設立25周年企画) プロフィール 会則 里山再生は究極のSDGs 速報 講演・寄稿・メディア シリーズ・団塊世代 春夏秋冬 レヴィン文化財プロジェクト 無名人からの伝言 式年東大社銚子御神幸祭 シリーズ「里山ってなんだ!」 鎌倉の美しい里山継承PJ 東庄と鎌倉 鎌倉の世界遺産登録 ガイドブック・プロジェクト 東日本大震災 鎌倉団塊プロジェクト 団塊探偵団(神奈川新聞) 唯我独尊(コラム) 現代に生きる禅の精神 野口農園 交遊録 台峯&マンション問題 インターネット新聞JANJAN Yahoo!セカンドライフ 大船観音前マンション建設 洞門山宅地開発問題 北鎌倉テニスコート築造問題 北鎌倉の恵みプロジェクト 個性派ショップの優れもの BOOK mixi入口 イベント案内 北鎌倉匠の市・展 イベント月別一覧 リンク 北鎌倉グルメ散策 北鎌倉でお買い物 男の料理教室 璃史写真館(非公開) 発見!体験!もう一つの鎌倉 六国見山日照権伐採 「元治苑」にマンション建設 璃史&七緒(非公開) 里山・六国見山と生物多様性 未分類 タグ
六国見山
里山再生
有機無農薬栽培
循環資源
循環農法
円覚寺裏山
北鎌倉
円覚寺
まちむら交流きこう
鎌倉アジサイ同好会
里山
森林・山村多面的機能発揮対策交付金
間伐材
新型コロナウイルス
夫婦桜
地ビール
ヤマザクラ
日本さくらの会
台風15号と19号
ヒノキの器
以前の記事
お気に入りブログ
最新のコメント
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(24) 次男新之、急性心臓症で急死 幸福の絶頂から奈落の底に ただ茫然とし、涙も出ず ②子どものこと わたしの子どもは亡くなった長男・覇人と、次男・新之と健在の三男・一誠と長女・洋子の四名である。覇人の幼児から死亡時点までのことと、新之の大学在校中のことは既に記述せるにつき、その後のことなどを記載する。 ③新之のこと 新之は昭和十四年四月、日本大学予科文学部に入学、昭和十八年九月、同大学法律科を卒業し、同年十月に予備学生として呉の海兵団に入団することになった。東京駅まで送っていき、別れた。 間もなく旅順港に行き、軍事教練を受け、さらに内地へ戻って久里浜の通信学校に入学し、卒業と同時に海軍少尉に任官し、マニラへ飛び司令部付となったのが昭和十九年である。既に敗戦色の濃い折柄、親のわたしとしては死地に追いやった感じがしてかわいそうであった。 戦地で海軍中尉に昇進し、終戦と同時に捕虜収容所生活を送り、参戦期間二カ年で兵役免除となった。帰国するまでかなりの苦難に遭遇したようだが、マラリア病に患ったのみで、とにかく昭和二十一年の春、リュックサックを背負って帰還した。 帰国後約半年休養してその年の九月、わたしの勤め先の農地開発営団本部に勤務することになった。しかし、営団が閉鎖になったので、昭和二十二年九月、農林省開拓局用地課勤務となる。 その後、九州地方農政局農政課長に転任、さらに昭和三十年東海地方農政局農地課長に転任、昭和四十四年四月、本省に戻り農地局総務課長補佐、農地課勤務となる。この間、昭和三十四年三月三十一日、元農地開発営団の理事・中島慶三の三女秀子と、上野精養軒に於いて結婚式を挙げた。 その後、東海地方農政局在勤中に長男の信之の出産があった。わたしの初孫である。世に信望を得る人物であれと命名したとのこと。昭和四十四年四月、六年ぶりに本省に戻ったので、本人はもちろん、わたしも家族も親類も皆大喜びであった。通勤には遠いが郷里に近いので、船橋の公務員宿舎に住所を定めた。 五月の連休の三日間、新之は秀子と信之を伴い、銚子に来た。近くに来たことを共に喜んだ。新之は「これからは親孝行が出来る。トーチャンは長生きしているので、孫も見られて幸せだろう」などと言い、一家団欒して語り合った。翌日は犬吠埼の方へ遊びに出掛けた。わたしも同行して灯台下の波打ち際へ信之も連れて下り、海水へ足を入れるなどして遊び、京成ホテルで昼食をして帰宅した。 わたしは信之を連れ出して通町から吉田の家などへ行き、芳昭の子どもと遊んで帰った。新之は一誠の縁談のことで田中先生の家へ行って来てくれ、それから帰り支度をして午後六時ごろ、家の前で車を拾い、三人は乗車した。信之に「バイバイ」して別れた。これが新之との今世の別れとなるとは神ならぬ身の知る由もなかった。お互いに機嫌良く別れたのに、これが永遠の別離となったのである。アーア。 それから約一カ月を経た六月四日の暁。まだ床に入っていた。午前六時に「電報」と戸をたたかれた。窓を開けて、受け取って電文を見ると「ヨシユキシス」とあった。あまり突然で、意外のことであったので真偽の判断に迷った。しかし、電文は何度読み返しても変わりない。一誠に知らせるためにアトリエへ昇って、新之の死を告げた。 共に驚愕した。交通事故かとも思ったが、時間的に夜中の出来事かとこれも疑い、電文の誤りであることを祈りつつ、とにかく自分一人で行ってみることにした。七時の急行列車に乗車した。その内、新居を訪ねようと楽しみにしていたことが、とんでもないことで行くことになり、津田沼駅までの車中、気もそぞろであった。 初めて訪ねる公務員住宅の五階にやっと昇って部屋へ入ると、加藤の仙佑夫妻もいれば検視の警官もいた。医者にかかっていない急死である故、一応検視を受けると後で聞いた。わたしが室内に入ると皆が「シッカリシロ」と声を掛けてくれた。わたしは事重大のためか夢中で涙が出ず、失神もしなかったが。新之の死体と対面してまさに死亡せることを承知することが出来た。 落ち着いた後、秀子から事情を聴いたが、昨夜九時ごろまで本省に勤務しており、帰宅後入浴の上、食事をして床に入った。それまでは何ともなかったが、夜中に信之がぐずるので目を覚まして脇を見たら、新之がうなっていたので驚いて声を掛け起こしたが通じなかった。「これは大変」と隣の住居者に急を告げ、医師の心配をしてもらったが、夜中のことですぐに来てくれなかった。救急車を頼んでもらい診察して注射をしたが最早その効無く、永遠の眠りについたとのこと。 残念であった。昼間のことなれば何とかできたと思われるが、致し方なきことである。診断は急性心臓症とあった。以上が臨終の事情だが、これを聴いてもわたしはただ茫然とするのみで涙も出なかった。 わたしは船橋ではお骨にして銚子へ持参の上、自宅の方で本式の葬儀を行う考えであったが、役所の方では船橋でお骨にした上、通夜と葬儀も一通り行ってもらいたいとの希望であった。本省関係から多勢の参拝者が来るし、地方からも来るものも多いので、銚子の方では困るとの話だった。わたしの考えは取り消し、一切を役所にお任せすることにした。今夜の通夜、明日の火葬場送りと定め、銚子の方は追って日を定め納骨式を行うことにした。 納棺の折は大棺を注文したが、それでも体が大きいので入れるのに骨を折った。最後のお別れの際には、「このような立派な体格をしておるのに、もったいない、再度会えない、灰にしてしまうのか」と胸が張り裂けるような思いをした。午後二時過ぎに役所の者、親類縁者のほか団地の者らの見送りを受け、出棺した。住宅の周囲の広場が自動車と人で一杯になった。付近の住民は車の多いのに驚いたという。わたしは送らなかった。帰ってきたのは五時ごろとなり、お清めのご馳走を出した。信之は無邪気に元気よく「パパはヨシユキ、ママはヒデコ、オジイチャンはハツタロー」とおしゃべりしていた。父の死の何事なるかは知る由もない。 六日の午後5時の汽車で銚子へ帰った。その後わたしは寝ても醒めても幸せの絶頂から奈落の底に落ちた悲運が悔しくて残念でたまらず、寸時も忘れられなかった。神経衰弱気味となり、足がふらふらとし目が回り、いつ倒れるか知れぬ容態となった。医師の診断を受けたが、医師からは「体には悪いところはない、不幸によるショックによるのだから特に薬はない。ただ、忘れることに努めなさい」と言われた。家に居ても一人で寂しく耐えられず近所の家へ出がちにしていた。 納骨式を二十一日、通夜を二十日に執行することにした。十九日通町の老母、音春、八木の節子などが手伝いに来てくれた。午後七時前、一誠、秀子、信之が船橋からお骨と写真を持って帰宅する。去る五月五日に自宅玄関前で機嫌よく送った新之が今日、無言の帰宅である。 二十一日は曇り時々雨であったが寺(円福寺)に出かける折は降らなかった。隣組の者が来て帳場を張り、本葬のような形式となった。吾郷内から元良、天神の家内、水神前から向後、谷津から仁、高橋、熱田の愛子、五井から伯母二人、水戸,埼玉の姉一人が来た。十二時過ぎに出かけたが多勢で賑やかであった。家に戻った人たちにお清めとして馳走した。信之は多勢の人で賑やかなためはしゃいでいた。一誠が空手の型をやって見せたら、一生懸命腕を出したり、足を上げたり型の真似をやって飛び回っていた。翌二十二日、秀子、信之、洋子らが月遅れのお盆に来る約束をして舟橋に帰った。 七月十五日 秀子から便りがあった。新之が六月四日付で従六位勲六等に叙せられたので晋伯父さんの家へ行って見せたら伯父さんが涙をこぼして泣いたとあった。 八月十二日 新盆のため秀子、信之来銚する。 八月十三日 午後墓参りに行く。信之に「パパは」と聞くと「パパ、シンジャッタ」と答える。 八月十四日 新盆参りの客を受ける。信之は一誠に花火をやってもらい喜ぶ。 八月十五日 秀子、洋子は香料のお返し物を送るため十字屋へ買い物に行く。 八月二十日 秀子と嫁と舅としての共同生活をしたのは今日までの約一週間が一番長い。わたしは余生を嫁と孫との共同生活を望んでいたが、世は思うようにならぬ。今月二十七日、(秀子の母や姉などがいる)水戸へ引っ越すため、支度や役所などのあいさつ回りがあるので、名残惜しいが致し方ない。帰るまで信之はわたしと遊んだ。午後の準急へ乗るので玄関前で車を拾い、乗車して「バイバイ」をやり別れる。これで少しの間は会えない。 わたしは秀子に「二人は水戸に行くが、二人ともわたしの家の者だからね」と言ったら「はい、野口の姓でありますから、野口の家の者です」と答えた。秀子の水戸での勤め(茨城県耕地課)が始まるので、二人はちょいちょい来られぬが(秀子には)「少なくとも盆正月に二回くらいは来てもらうよう」と話した。孫と共に賑やかに暮らせることが何よりと思っていた。いかなる理由で二人を水戸の家の厄介になることにしたかを説明する。二人に対しては国から退職金も下りるし、遺族扶助料ももらえるから、家賃のごとき多額の出費を除けがその日の生活には困らぬだろうが、信之の将来の教育費などを考慮する必要があった。 今回の出来事で一番哀れなのはわたし自身と思われるが、秀子がわたしより一層悲運の立場にあると考えた。奥様の立場から、職業婦人に変わり、しかも信之が一人前になるまで前途の長い期間、成育の責任を持たねばならぬのである。よって、わたしの希望を譲って、秀子の意思に従い、水戸に厄介になることに定めた。 わたしの親戚の中には信之が将来は水戸の者になってしまうのではないかと心配する者もあった。わたしも同様に考えないこともないが、この際、二人の不幸なものの幸せは水戸の厄介になるのが一番良いであろうと思った。将来のことはわたしが百歳まで生き、長寿を保っていればわたしが定める立場になろうが、然らざれば信之自身と身内の者が良いように心配してくれるだろうと考え、賛成した。 秀子が船橋の公務員住宅を引き上げるのは二十七日と定められた。わたしが水戸まで送って行き、お願いするのが当然と思ったが秀子はそれを辞退した。わたしは送らないという意味の手紙と次の歌を書いて二十七日に届くよう送った。 パパ亡き子 ママを頼りに生き行くと 思えば 永き行きてかな 父ちゃんシンジャッタと孫笑顔 無心の様に 胸打たるる 信之と砂場に出て絵を描いて 遊んで居れば 愁い いやます 砂場にてジイチャン来いと我れを呼ぶ 地面に描いた 絵を見せむと 二歳児の 孫を遺され この老爺 百歳までも 頑張らねば ④一誠、洋子誕生前後のこと 昭和十六年お正月、むつ子は体が優れず五井町の生家立野へ行っていた。一月十二日、五井町の父清二郎が予てから病床にあった。重いと聞き見舞いに行った。かなり衰弱しており重患に見えた。枕辺に寄り、見舞いの言葉を述べたら寝たまま死後のことなど話すので胸が一杯になり涙がこぼれた。お別れして帰ったが、十五日に永眠した。葬儀は十七日に執行した。 むつ子はその後帰銚していたが産月が近づいたので二月二十二日、わたしが生家へ送って行った。三月七日、月満ちて午後四時十五分、男子安産の知らせがあった。体重860匁(一匁=三.七五グラム)と聞いた。九日にわたしは五井町に行き、親子の対面をした。名を初と清に因み一誠と付けた。四月四日にまた五井町に行ってみる。皆からわたしによく似ていると言われた。五月五日、むつ子と一誠を連れて帰宅した。祖父母と一誠は初対面する。わたしは入浴させるのが楽しみであった。 六月十七日、児童の体格検査があったが一誠は体重6キログラム、身長60.5センチメートルと良の方である。八月中旬、一誠は一人でお座りが出来、九月半ばでハイハイも出来るようになった。仕事の方は大利根用水事業の上流部がほとんど完成したので、事務所を旭市に移転した。大倉所長時代であったが、同氏が他県に転任したので、十月十五日付で再びわたしが所長の職に就き新川改良事務所長を兼務することになった。一誠は両手を挙げて万歳が出来るようになる。 昭和十七年元旦、祖父母、わたし、むつ子、新之、一誠の六人元気に新年を迎えた。一誠は元気でハイハイが盛んに出来る。皆で祝杯を挙げた。市内は旧正月を廃したので賑やかだった。ラジオは相変わらず戦の報告でフィリピン占領も時間の問題であるとのことだった。 一月二日、わたしとむつ子と一誠は三人で銚港神社へ初詣りして一誠の写真を撮る。この頃手を離して立つ。十四日、むつ子と一誠は五井町へ行き、十九日千葉まで送られたとのこと。二十一日、一誠を背負っていたらどてらの中へ大便をされた。空襲が盛んになったので監視所が設けられた。二月十五日、シンガポールが無条件で陥落せりとラジオは放送する。十八日は第一次戦勝奉祝日で世間は大賑わい。一誠ははしゃいで歩き出し、縁側の角に顔を打ちつけ大泣きする。 三月四日、空襲警報発令、敵機来襲、夜中に爆音数回聞く。三月中、一誠は数回病気をしていたが、近所の子どもと比べて一番発育が良く、もー盛んに歩き回り、鳥の鳴き声、牛の鳴き声など何でもできる。絵本が大好きで本の説明を求む。泣いて居る際、本を出してやると止む。黒板に絵を描いて見せると喜ぶ。「トーチャン」が言えるようになった。 七月二十二日、大利根揚水機場へ天皇陛下のお使いとして入江侍従の御視察あり。わたしより事業の計画および工事の状況などを説明する。十二月二十五日、むつ子出産のため五井町の生家へ。一誠とわたしが同行する。昭和十七年は空襲警報頻繁にあり、大利根用水事業の方は粟野地区の反対に会い、抗争中。 昭和十八年は長女洋子が生まれた年であるが、わたしの一生のうちでは良いことと悪いことがあり、種々多様なことのあった年である。元旦は一誠とむつ子が五井町に行ってしまったので寂しい。むつ子からの便りで、一誠は元気であるが夜になると銚子を思い出して「お家へ帰ろう」と言い出すので可哀想で涙が出るとあった。一月五日零時半、女子安産の電報が来た。夜、父母、新之と共に喜び名を考えた。洋子、徳子、清子などを挙げて、この中からむつ子に選ばせることにした。 九日、県庁で用事を済ませて五井町へ行く。女の子の父親になったのは初めてだ。一誠はわたしを見て、最初は恥じかんでいたがすぐに笑顔となり膝の上に乗って喜ぶ。夜は自分と入浴する。産児は洋子と定めた。一月十日、帰宅したが、五井町からの帰り際、一誠は後を追って泣いた。二十日粟野問題で県庁へ用事あり。出県のついでに五井町へ回ったら一誠が大喜び。 二月十一日、二九三会の創立総会を越中屋で行いわたしが会長に選任された。 二十五日、むつ子と二人の子どもを連れて帰銚した。三月五日、空襲警報発令。十七日、洋子の出産祝いの礼に親せきのものを迎えて甘酒や赤飯を馳走する。空襲が数回あり、敵の母艦三隻が本土へ近寄ったという。一誠は絵が好きで飛行機の絵をよく描く。四月十八日、新之から海軍法務官の希望を軍部へ申し出たと便りあり。四月三十日、両総用排水事業の田中所長より県へわたしを懇望されたと県の耕地課長より話があった。 一誠はおしゃべりが上手で明瞭で、親ばかのためか他家の子どもと比べて頭がいいように思う。洋子は柳行李に入れておくと大喜びで遊んでおる。五月十八日、むつ子も母も病気で臥床しており、起きられないので二人を守しながら洗濯と掃除などをする。一方、大利根用水の方は粟野問題が大詰めに近付きつつあり、両総事業への転任問題もあり内外多事多難である。二十五日、洋子と一誠が麻疹にかかり、むつ子は発疹紅はん病と診断された。 両総転出について予ねてむつ子にも話してあった。六月一日、来るべきものが来たとむつ子に話したら同意したので、決心して出県し地方技師の退官願いを耕地課長に提出した。七月十二日、新之の日本海汽船への採用が決定したとの知らせがある。七月十七日、むつ子が医者の診断により、肋膜が悪いと言われた由。涙を浮かべて訴えたのでわたしも胸が一杯になる。七月十四日付の官報に勲六等に叙せられたとあった。悲喜交々。 洋子を旭出張所出勤のついでに汽車に同伴して熱田の家へ世話を頼む。それから旭の事務所へ毎朝出勤の際、洋子を同伴することにした。一誠はわたしの後を追って困った。七月三十一日、新之は就職口が定まったが、体の具合が悪いので足踏みしていた。今年中でも今月は色々の出来事が起こり、大変な月だった。 八月三十一日、日本海汽船より新之に採用の通知が来る。五井の母の具合が悪く、起床出来ないので伊藤老母に頼む。八月二十八日、地元大利根用水の両組合よりわたしの転任を聞き、多勢の調印を纏め留任運動に出県せりと聞く。県より「野口さんの退職は栄転のためであるから留任させるより本人の意思に任せたほうが良かろう」と組合側が説得されたという。洋子は生育が良く、お膳に上ってオイタをしたり、おしゃべりも上手。 九月十五日、大利根用水の東線のガンであった粟野問題も解決する。七日付の官報にわたしの退官が掲示された。二九三会の会員一同で香取神宮へ参拝する。九月十八日、父と共に谷津へ行く。九月二十日、新之が帰銚し、海軍予備学生として入団の通知があったと話す。九月二七日、千葉市の長崎屋でわたしの送別会があり、経済部長の出席あり。九月二十八日、新之入団のため出発する。親戚や町内の者ものなど多勢に送られて銚港神社に参拝して駅に向かう。一誠は旗を振って同行し、千葉へ泊まる。九月二十九日、千葉より東京へ。一誠は初めて上京。汽車、電車、どこも人で一杯。動物園を見物して有頂天になる。神経過敏にならなければよいがと心配された。三十日、新之、呉の海兵団に入団するため、呉へ行く。一誠と自分は帰銚する。 十月一日、新之入団の日。二日、大利根用水関係者による自分の送別会。旭市の福柳に行く。出席者百名近く。昨日は倅を送り、今日は自分が送られる身。七日、農地開発営団両総事業所へ出勤。大利根用水下流各線を営団が代行することになったので、自分は営団の東京事務所兼務となって同事業所の主任を任じられ、中川技師ほか数名の職員と共に施工にかかる。三十一日、洋子はますます元気で手放しで立つことが出来る。人の言葉も分かるようになった。わたしが朝、出勤の際には手を振ってお別れする。 むつ子は経過良し、新之は旅順港へ行く。十一月三日、勲六等の勲章を下げて写真を撮る。空母二艦撃沈の大戦果を挙げたと報告があった。 十二月四日、一誠が自転車に跳ね飛ばされて顔に傷する。三十一日、洋子が座敷の中を歩き出す。「トーチャン、カーチャン」が言えるようになる。今日は洋子を背負いながら、むつ子の床を上げて掃除をする。 昭和十八年は頭書に記載した通り、悲喜交々多事多難な年であった。先ず長女の洋子の誕生から始まり、小学校時代の友の集まり二九三会を組織する。勤めの方は大利根用水事業では粟野問題で苦闘し、これを攻略した。勲六等を授けられ、新之は日本大学法学部を卒業すると同時に海軍予備学生として應召され、旅順港に赴任。自分は長年勤めた千葉県庁を退職して農地開発営団に転職して両総用排水事業所勤務となり、同東京事務所兼務となる。公私多忙を極める。子どもたちは元気にすくすく成育せるもむつ子は病弱となり、子守をしつつ勤務を果たす状態だ。また一方、戦況は敗戦色愈々濃く、空襲警報頻繁にして安眠しがたく防空壕へ逃げ込む状態にあり、実に多事多難の年柄であった。 ⑤父母の死 わたしが両総用排水事業所の所長時代であるが、農地開発営団本部は東京の永代橋際から新宿の三越デパートの五階に移っていた。昭和二十一年十二月十一日、わたしは用事があって本部へ出頭した。その日は帰宅出来きず、そのまま本部へ泊まっていたら、佐原の出張所より電話があり、父の死を知った。常に健康で病気もしておらぬようであったが、老衰で急死した。明くる日帰宅して死に顔と対面した。臨終に立ち会えなかったのが残念であった。しかし、幸い妹くに子が在銚中であったので、最後の看取りをしてくれたのが幸いであった。行年八十七歳(数え年)。 母の方は老年にいたり、あまり健康体ともいえなかった。また、わたしが留守がちで幼児もあるので佐原町から雇い入れた女中に世話してもらっていたが、なかなか気難しい病気のため看護に骨が折れた。ある折は千葉のくに子家へ行きたいと申すので、千葉へ送っていったが、間もなく「手が足りなくてもやはり実家の方がいい。戻りたい」と言い出したので、銚子に帰すことにした。わたしが在宅中だった昭和二十四年十一月二十八日、母の病状が急変した。医者を招き手当をしたが、遂に永眠した。母の臨終はわたしと母の妹である叔母と二人で見送った。戦争が終わってからのことであるからもう少し長生きさせたかった。父の時と異なり、叔母一家が多数、同居していたので寂しい思いはなかった。 ⑤一誠結婚 一誠の結婚についてはかなりの人に心配をかけ、多数の相手を紹介されたがいずれも縁がなかった。昭和四十四年の暮れになって田中幸次郎氏から「いっそのことわたしの家の娘、昭子(早稲田大学在学中)をもらってくれ」と申し出があった。数日後、一誠と昭子が会ったら両者とも異存がない様子だったことなどから賛同した。それから両家の交際が始まり、四十五年四月二十六日の吉日に挙行することに定めた。昭子は四十六年三月、大学卒業後教師の職に就く予定であったが、結婚後間もなく妊娠したので、就職は断念した。出産予定日の三月九日、長女香織が生まれた。二年後の昭和四十八年五月八日、次女眞紀子が生まれた。
by kitakamayunet
| 2008-05-04 10:16
| 無名人からの伝言
|
Trackback(7)
|
Comments(3)
![]()
タイトル : 無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(26)
無名人からの伝言―野口初太郎不屈の人生―(25) 阿部建設のルーツは大利根用水事業 創業当初の最も良き体験 二〇〇八年五月十一日、東庄町公民館大ホール(収容四百人)で開催されたレヴィン分介在プロジェクトの第三弾、盧佳世ライブin東庄vol.3「レヴィンとヒデクニからの伝言」は、四百席満席となり、またまた盛況裡に終わった。コンサート前日、コンサート出演者および関係者がはるばる大分からやってきてくれたのでささやかではあるが心のこもった歓迎会が催された。この時、レヴィンのお父さんから「レヴィンが勤...... more ![]() ![]()
タイトル : 納骨の時の石屋さんへの心付け
心付けのことを書くなんておかしいと思いますが、 結構重要です。 大切なお墓を扱う石屋さんへの心付けは後々も自分のお墓を 気にかけてくれるからです。霊園の管理人さんもそうです。 決してやってはいけないことは、みんなの前で渡すことです。 みんなの前だと責任者に渡さないといけないし、場所によっては 寸志が禁止になぅっているからです。少しのお金で少し汚かったら 掃除暮らしてくれるという意味をこめて渡すので、 みんなの見ている前で渡すと意味がありませんよ。 お寺の墓地にしても、霊園...... more ![]() ![]() ![]()
タイトル : ホームページもリニューアル。新商品も追加
写真とぬいぐるみのコラボレーション。お友達の誕生日のプレゼントやご出産のお祝いにも大変ご好評です。 どうぞよろしくお願いします。... more ![]() ![]()
信州松代のNPO夢空間事務局 香山です。
先日北鎌倉の神々を片手に北鎌倉を探索してきました。 お寺もいくつか訪ねてきましたがさすがに鎌倉という感じで 緑豊かな環境を保全し心が洗われる思いがしました。 侘助のお食事もとてもおいしかったですよ。 またぜひ訪ねたいと思います。 当ブログで北鎌倉の神々をご紹介させていただきました。
0
![]()
URLがちがっていたのかリンクしなかったので再度URLを書き直しました。
香山さん、本当に北鎌倉に立ち寄っていただけたのですね。嬉しいです。また、機会がありましたら松代に伺います。
|
ファン申請 |
||