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その如月の望月のころ母は95歳の人生の幕を閉じた3・30 一番上の姉が眠る宝満寺のお墓(銚子市) ![]() 彼岸入り直前の9月18日から19日にかけて両親。兄、姉、叔父の墓参りを目的に帰省した。ご先祖様、両親、長兄らが眠る実家のお墓は千葉県香取郡東庄町にある。次兄のお墓は千葉県木更津市、一番上の姉のお墓は千葉県銚子市、息子同様にかわいがってくれた叔父のお墓は千葉市にある。
次兄のお墓(木更津市営霊園) ![]() 広範囲に点在しているので、18日に朝早く自宅のある北鎌倉を出て、まず、次兄のお墓を参拝した。宗派は真言宗なので般若心経と光明真言を唱えた。その後、実家に向かった。しかし、ご先祖様、両親、長兄らが眠る実家のお墓参りはかなわなかった。千葉県は記録的な暴風を伴った台風15号の直撃を受けて大きな被害を受けた。ご多分に漏れず、実家のお墓も倒木が発生し、立ち入るのが危険な状態になってしまった。
やむなく仏壇に花と母が好きだった六国見山の畑で収穫したサトイモを供え、お線香をあげ、開経偈(かいぎょうげ)、般若心経、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、光明真言をじっくり唱えた。ちなみに実家の宗派は真言宗である。この日は母の介護をしてくれた🈩番下の姉に感謝の気持ちを込めて、妻と3人で銚子市の温泉宿に一泊した。
叔父のお墓(千葉市営霊園) ![]() 19日は銚子市にある一番上の姉のお墓参りをした。姉の嫁ぐ先の宗派は浄土真宗だ。この姉の伴侶の義兄は信心深い人で、菩提寺の檀家総代をしていた。ということで、墓前で正信偈と南無阿弥陀仏を唱えた。この後、🈩番下の姉を実家に届け、千葉市内にある叔父のお墓参りをした。こちらは真言宗なので般若心経と光明真言を唱えた。
今回、墓参りを思い立ったのは、自分の男の家系が短命であることと、高齢者の交通事故が多くなっていることが理由だ。父は69歳、長兄は66歳、次兄は56歳で亡くなった。わたしは今年7月28日に71歳の誕生日を迎えた。父や兄たちは70歳の節目を超えることなくこの世を去った。自分は70歳を超えても健康である。
ただし、老いていることは間違いない。いずれ、車の運転ができなくなるであろう。そうならないうちに広範囲に点在している身内の墓参りを済ませておきたかった。それが遺された者の役割だと考えた。19日に帰宅し、肩の荷が下りたような安ど感を持った。
【ご参考】 ◇2019年(令和元年)秋のお彼岸期間はいつからいつまで? 秋のお彼岸は「秋分の日」を中日として前後3日間、計7日間が「お彼岸」の期間となります。今年(2019年)の秋分の日は9月23日(月・祝)ですので、【2019年(令和元年)秋のお彼岸は9月20日(金)から9月26日(木)】という日程になります。
◇お彼岸とは? なぜお墓参りをするの? …悟りの境地「パーラミター」を、川を挟んだ向こう岸、すなわち「彼岸」に例えたのが私達日本人の伝統行事「お彼岸」なんですね。反対に、私達の生きる煩悩の世界はこちら側の岸「此岸(しがん)」と呼ばれています。日本古来の自然観や先祖崇拝の影響から、亡くなった家族やご先祖は迷いのない「彼岸」へと渡り、時々私達の生きる此岸に姿を現すと考えられるようになりました。春分の日と秋分の日には、太陽が真東から上り真西へと沈みますが、それによって彼岸と此岸とが通じやすくなり、これらの時期に先祖供養をすることでご先祖の冥福を祈るとともに、自らもいつか迷いのない此岸に到達できるよう願ったのです。ひと口に「お彼岸」と言いますが、彼岸と此岸(あの世とこの世、すなわちご先祖と私たち)とが交流する行事であり、そのための場所が「お墓」なんですね。…(株式会社加登HPhttps://www.forever-kato.co.jp/index.htmlより転載)
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| 2019-09-24 07:33
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親の介護と並ぶ団塊世代の共通の悩み:お墓移転① 母性の塊、我が子を守るためにしっかりと生き抜く ![]() 【西行法師】 ねがはくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ 『新古今集』雑下。西行の作中特に有名な歌だが、『新古今集』完成の中途で切り出し(削除)措置を受け、異本にのみ残された。「如月の望月のころ」は二月十五日(満月)をいう。太陽暦では三月末に当たる。西行の熱愛した桜の花盛りの時期に当たるが、また釈迦入滅の日でもある。出家の身として、とりわけその日に死にたいという願いをこめた歌だが、驚いたことに、彼は願った通り、河内の弘川寺で、建久元年二月十六日に没した。(大岡信ことば館より) 鎌倉一のヤマザクラの名所である六国見山のヤマザクラが満開になった3月30日の午後、故郷(千葉県香取郡東庄町)に住む姉から母の訃報が届いた。母は関東大震災の発生した大正12年、お釈迦さまの命日である2月15日に下総台地の農家に生まれた。そして、農家に嫁ぎ、農婦として一生を終えた。享年95歳。 平凡な農婦だったが、母の人生は戦争に翻弄された波瀾の人生だった。最初の夫が戦死した。母は5歳の娘を嫁ぎ先に残し、病気で奥さんに先立たれたわたしの父と再婚した。多分、この時、母が24歳で父が41歳。歳の差17歳。父には姑と先妻の子どもが5人いた。昭和23年、わたしが生まれた。 戦争がなければわたしは存在しなかった。父方から見ればわたしは6人兄弟の末っ子。母の残してきた娘も入ればわたしは7人兄弟の末っ子。父と母が揃っているという観点からは長男であり、一人っ子だ。姑は母に厳しかったが、幸い、異母兄・姉が優しい人たちで、母とわたしを大事にしてくれた。 昨年8月末、母は誤嚥性肺炎で入院した。余命は2ヶ月とのことだった。しかし、強い生命力で3月30日まで生きた。「ひ孫が大学卒業するのを見届けるまでは死ねない」。母はこの一念で命の炎を燃やし続けた。そして、ひ孫の大学卒業を見届け、帰らぬ人となった。 わたしは母を思う時、決まって幼い日の二つの光景が蘇る。その一つ。母の実家の縁側で手前に腰掛けていた母がうつむきながら涙を流していた。それを小さな女の子がちょこんと正座し、じっと見つめていた。 わたしは二人から少し、離れて「母はなぜ泣いているのか、小さな女の子は一体、誰なのか」、そんな疑問を懐きながら、庭の地面にいたずら書きをしていた。今思えば、小さな女の子は最初の嫁ぎ先に残してきた娘だった。母と娘は母の実家でしか会うことができなかった。母は儘ならぬ人生を嘆き、そいて泣いた。 もう一つが畑の中を走るおんぼろ道を、母がわたしを背負って病院へ向かって歩いている光景だ。自宅から病院までの距離は約4キロで、途中に二つの坂がある。当時のわたしは小学一年生。健康優良児で生まれた。しかし、小学校に入る前の年に、遊んでいて腹部を強打し、内出血を起こした。 季節はビワが実るころ。リヤカーで運ばれた病院のベッドで血反吐を吐いた。その中にビワの実が入っていた。この時から数年前、腹部を強打した時期になると腹が痛み、食事をとれなかった。がりがりに痩せ、付けられたあだ名が「青びょうたん」。体育の時間は見学が多かった。 人生は時として思いがけないことが起きる。母が最初の嫁ぎ先に残してきた娘・勝子と父の長男の仁が結婚した。後々聞いたことだが、母が再婚の際、父に仁と勝子の結婚を条件にした結果だという。こどもの意思がある。親が決めたところでそうなるとは限らない。でも、母が望んだ通りになった。 10年前に長崎で二人暮らしをしていた妻の両親を預かることにした。義兄と義妹にそれぞれに事情があって妻の両親を引き取ることは出来なかった。妻の両親を預かる決断はさほど難しくはなかった。理由は衰えの目立った母の介護を姉の勝子が引き受けてくれていたからだ。 仁は16年前に亡くなっている。兄嫁が血のつながっている勝子でなければ決断は容易ではなかったと思う。妻の両親を引き受けてからは、母を安心させること、母の世話をしてくれている姉への感謝の気持ちを持って10年間、毎月1回帰省した。 帰省して北鎌倉へ帰る際、「また、来月来るよ」と言うと母はにっこりと頷いた。亡くなる6日前の3月24日に帰省した。誤嚥性肺炎を再再発して少し息苦しそうだった。「誰だか分かる?」。母に問いかけると「稔」と母は答えた。妻の両親を引き受けることで親孝行ができた。 梅の花が咲く季節に生まれた母の名は梅。西行法師が望んだように「その如月の望月のころ」に亡くなった。母性の塊のような女性だった梅は、我が子を守るためにしっかりと生き抜いた。わたしは今年7月28に古希(70歳)を迎える。これまでに楽しいこと、辛いこと、色々なことがあった。でも、はっきり言おう。「梅さん、わたしを産んでくれてありがとう」。合掌。 ![]() 写真は2008年10月5日に故郷の千葉県香取郡東庄町笹川の鯉屋旅館で開催した「無名人からの伝言―大利根用水に賭けた野口初太郎不屈の人生―」の出版会に参加した母とわたし。 ![]() 【参考】 *身につまされた「枯れるように死にたい」 (田中奈保美著、新潮文庫)より転載 今度は母(94歳)が誤嚥性肺炎を発症して入院 2017年8月19日、丸太に挟まれて右手薬指を骨折してしまった。土曜日だったので救急病院で応急措置をしてもらった。その翌日、姉から「母が誤嚥性肺炎で入院した」との連絡があった。すぐに駆けつけたかったが、翌日の21日の月曜日に本格的な骨折の処置をしてもらう必要があった。シーネ(添え木)で右手薬指を固定してもらった。危なっかしい車の運転で故郷へ向った。母は昨年3月、脳に血栓ができ、寝たきり状態になってしまった。老健や特別養護老人ホーム(特養)に入らず、自宅で姉が介護していた。姉は誤嚥しないよう朝昼晩おかゆを作った。自力で排泄行為ができないので、必要に応じて大人用おむつの交換をした。お風呂には週2回、老健で入れてもらった。医師が月1回往診してくれた。姉75歳、母94歳。完璧な「老々介護」の世界である。 「俺だけど分かる」。母に呼びかけた。「稔だね。分かるよ」。母はかすれるような声で呼びかけに反応した。小柄(最大身長149センチ)な母が一段と小さくなっていた。「命が尽きようとしている。まだ意識のあるときにわたしの二人の息子に引き合わせよう」。そう考えて、長男(43歳)と次男(40歳)に母の状態を連絡した。ほとんど声を出すことなく眠るようにベッドに横たわっていた母だったが、長男が見舞った時は「大きくなったね」、次男の時は「いい男になったね」と、はっきりと言葉を口にした。よほど嬉しかったのであろう。 腕の静脈への通常の点滴を選択 月が替わった9月、「一人では心許ない。一緒に立ち会ってほしい」という姉からの電話で、母の主治医と今後の治療方針を巡る話し合いの場に同席した。主治医は①腕の静脈への通常の点滴②中心静脈(大腿静脈、内頚静脈、鎖骨下静脈などの太い静脈)への点滴③大腸がんなどの検査の実施④胃ろうの取り付け(口などからの食物・水分の補給が困難な場合、胃壁と腹壁に穴をあけてチューブを取り付け、外から直接胃に栄養剤などを注入する治療法)-の四つの治療法を提案した。 「母はもう十分生きてくれた。苦痛を与えたくないので、過度な延命治療は望まない」。姉とわたしの思いは一緒だった。躊躇なく主治医へ腕の静脈への通常の点滴の継続をお願いした。通常の点滴も延命治療の一つだが、これを「止めてください」とは言えなかった。やはり、母には少しでも長く生きていて欲しいとの気持ちがある。それと寝たきり状態になった母が「どうしてこんな惨めな状態になってしまったのかな。世話(介護)をしてくれている勝子(姉)に申し訳ない。でも、死にたくないな」とポツリと言ったことを覚えていたからだ。 主治医は「腕の静脈への通常の点滴だけならば寿命は1~2ヶ月で尽きる」と言った。この通りなら母は10月末までに帰らぬ旅に旅立っているはずだった。しかし、義父同様に母は強靭な生命力を持ち合わせているようだ。今日(2017年12月18日)現在、母は存命している。現在、病院に併設された療養型病棟に移された。少しは口から食べ物が入るようになった。命の不思議を感じる。 ▲
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| 2018-04-12 08:21
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命のつながりと次の世代への継承を確認:お墓移転② ![]() 6月6日に北鎌倉・六国見山の麓にある龍隠庵(円覚寺の塔頭)に、義父や義母の両親らのお墓を移した。ところが、肝心の義母は、同日の納骨供養の時は圧迫骨折、お盆の時は熱中症で入院してしまい、墓参りが実現せず、「画竜点睛」を欠いた状態で、この夏は過ぎ去った。 幸いにも、暑さが和らぐにつれ、義母の体調も回復した。そこで、彼岸入り2日目の9月20日、車椅子に義母を乗せて、お墓参りを済ませた。義母は平らな場所は杖を頼りにして歩行が可能だが、階段は無理。龍隠庵の共同墓地は急な階段を上りきらないと辿り着けない。 ![]() ◇2015年のお彼岸 【 秋彼岸 】 9月20日:彼岸入り 9月23日:彼岸の中日(=秋分の日。祝日) 9月26日:彼岸明け ![]() ▲
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| 2015-09-21 19:43
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涼風と鮎尽くしに満足・長良川温泉十八楼:お墓移転⑥ ![]() ![]() 5月23日は午前8時に長良川温泉の十八楼を出発、この日の宿泊地の岡山県のドーミーイン倉敷に向かった。岡山に立ち寄ったのは、如水会鎌倉支部長の仙頭靖夫さんが岡山県出身で、倉敷訪問を勧めてくれたからだ。仙頭さん推薦の宿は3カ所だったが、ドーミーイン倉敷以外の他の二つは予約でいっぱいだった。倉敷の観光地としての人気ぶりが伺えた。 仙頭さんは岡山県出身で「おかやま晴れの国大使」(観光大使)に任命され、岡山県のイメージアップに奮闘中だ。その仙頭さんから後楽園の優待券をいただき、倉敷では「郷土料理 浜吉」を紹介されていた。このため、後楽園を見物してから、ドーミーイン倉敷にチェックインし、倉敷の美観地区を散策後、浜吉で夕食を取った。浜吉では瀬戸内の海の幸を堪能した。とりわけサワラ、タコ、アナゴが美味しかった。いい思い出になった。それにしてもたくさん食べた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【倉敷美観地区】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【阿智神社】 ![]() ![]() 【後楽園と岡山城】後楽園は妻に言わせると42年前、結婚直後に訪れたとのこと。どういうわけか、まったく覚えていない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
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| 2015-07-06 18:59
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さだまさしの『昨日達…』:お墓移転⑤ ![]() ![]() 妻の実家のお墓の移転に伴い、5月下旬に北鎌倉と長崎県西海市の間約2,600キロメートルを車で往復した。間もなく67歳になる。体力的に一気に走破はできない。一日の平均走行距離を約400キロと想定し、6泊7日の行程を組んだ。西海市の帰命寺に預けてある義父らの遺骨と骨壺を引き取り、北鎌倉の龍隠庵に埋葬することが最大の目的で、物見遊山の旅ではない。 宿泊地は「疲労回復」を最優先にし、インターネットなどで高速道路に近い温泉地を中心に選んだ。翌朝早い時間の出発になるので、午後4時には宿に到着するというもの条件の一つだった。その結果は5月22日・岐阜県の長良川温泉(十八楼)、23日・岡山県の倉敷(ドーミーイン倉敷)、24日・長崎県の川棚温泉(くじゃく荘)、25日・山口県の下関(海峡ビューしものせき)、26日・滋賀県の雄琴温泉(びわこ緑水亭)、27日・静岡県の西伊豆(堂ヶ島ニュー銀水)。それぞれの地域で地域活性化や生き残りをかけての取り組みが展開されていた。カメラを持参していたので、その意気込みを写真で振り返ってみたい。 最初の宿泊地は長良川温泉の十八楼に決めた。義母をショーステイ先に送り届けてからなので早朝、鎌倉出発はできず、長い距離は走れない。鎌倉から長良川温泉までは400キロメートル弱で、今回の旅の条件に当てはまっている。長良川温泉には15年以上前に取材の途中、宿泊したことがあり、きれいな温泉だったとの印象が残っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
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| 2015-07-05 09:55
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「虫の知らせ」ならぬ「サンマの知らせ」:お墓移転④ ![]() 車の中で最初に平原綾香のCD『my Classics!』(マイ・クラシックス)をカーステレオにセットした。新潟県中越地震の際、被災者を勇気付ける応援歌として新潟県内のラジオ局で多くリクエストされた「Jupiter」(ジュピター)が収録されている。このCDの中では「ノクターン/カンパニュラの恋」がわたしのお気に入りだ。 その次に繰り返し聴いたのがさだまさしの初のオリジナル・ベスト・アルバム『昨日達…』(イエスタデイズ)だ。約20年前に思うところがあって産業カウンセラーの資格を取った。資格を取るには産業カウンセラー養成講座の受講が必要で、受講中に講師が教材としてさだまさしの「生生流転 」と「不良少女白書」を使った。 「不良少女白書」の「…何が 正しくて 何が 嘘ですか 100じゃなければ 0ですか ああ聞こえない ああ届かない 自分の夢がわからない ああ…」の詩が、カウンセリングの基本であるクライアントに「寄り添う心」と傾聴に通じると考えた。受講後、「不良少女白書」の収録されている『昨日達…』を購入した。 ![]() ただ、普段聴くには「重い」のでほとんど聴くことはなかった。しかし、今回は是非とも聴きたいと思った。最初の曲が「道化師のソネット」だった。 「僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで 時の流れを下ってゆく 舟人たちのようだね 君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを…」の詩が、心にグサッと突き刺さった。防人の詩になると涙をこらえ切れなかった。 「防人の詩」 … 私は時折苦しみについて考えます 誰もが等しく抱いた悲しみについて 生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと 病の苦しみと 死にゆく悲しみと 現在の自分と 答えてください この世のありとあるゆるものの すべての生命に約束があるのなら 春は死にますか 秋は死にますか 夏が去る様に 冬が来るように みんな逝くのですか わずかな生命の きらめきを信じていいのですか 言葉で見えない望みといったものを 去る人があれば 来る人があって 欠けてゆく月も やがて満ちて来る なりわいの中で … ![]() さだまさしの生年月日は1952年4月10日。現在63歳。『昨日達…』が発表されたのは1981年11月18日。29歳の時だ。20代の若さで仏教やカウンセリングの本質を理解し、それを詩や曲にしている。すごい才能を持ったシンガーソングライターである。 ▲
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| 2015-06-25 12:28
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慈愛の中に深い悲しみ、龍隠庵の平和観音:お墓移転③ 日本一の水揚げ量を誇る銚子漁港 ![]() ![]() 漁師の町、銚子の「申し子」だった義兄が6月10日、92歳で亡くなった。性格は豪放磊落、親分肌。一方で細やかな神経を持ち合わせ、義理人情に厚かった。25歳年が離れていたので、わたしにとっては父親のような存在でもあった。妙にウマが合い、会うと話が弾んだ。 その義兄が自らの死期が近いことを直前に知らせてくれた。いわゆる「虫の知らせ」だ。話には聞いていたが、「本当にある」と確信した。顛末は下記の通りだ。 犬吠埼の灯台 ![]() 南部市場に義兄の会社の「サンマの開き」 義兄の家業は水産加工業だ。6月2日に竹炭をいただいている「鎌倉すざく」の横浜工場にお礼としてタマネギ、ジャガイモ、キャベツ、ソラマメなどの野菜を持参した。「鎌倉すざく」の横浜工場は南部市場のすぐそばにある。南部市場の魚屋さんに立ち寄り、刺身を買った。会計をしているときに干物(サンマの開き)のコーナーを見たら、見覚えのある商標が目に入ってきた。 「まさか」と思って、詳細にチェックしたら、それは義兄の会社の製品だった。個人商店の小さな会社だ。全国的に流通しているわけではない。さっそく買って帰り、夕食のおかずにした。このことをそのうちに甥や姪電話しようと思っていたら、6月7日の夜、姪の方から電話があった。「義兄が危ない。遠くて申し訳ないが、見舞いに行って」。わたしがサンマの開きを買ったころに、容態が悪化し、緊急入院したという。 6月8日朝、銚子へ向かった。義兄は酸素吸入が必要で会話もままならず、ベッドに縛り付けられていた。内臓がかなりのダメージを受けていると聞いていた。手を握り、肩をさすっていると振り絞るような声でわたしの名を呼んだ。そして、何かを必死になって訴えていた。「帰ってもいい?」と聞いたら「イヤイヤ」と首を横に振った。言葉にならなかったので意味は読み取れなかった。 銚子大橋 ![]() ![]() 2日後、姪から「今朝、義兄が亡くなった」との電話があった。不思議な体験をした。5月下旬の北鎌倉-長崎往復2,600キロの旅、6月6日の納骨供養、6月14日の「石田泰尚・山本裕康・諸田由里子 ピアノトリオ・コンサート」を目前に控えた時期でかなり忙しかったが、義兄とちゃんとお別れできて本当によかったと思っている。 余談がある。姉は約10年前に亡くなったが、このときも不思議な体験をした。姉は、くも膜下出血で倒れ、緊急入院した。この時期、会社の仕事が猛烈に忙しかったが、時間をやりくりして姉を見舞った。 姪は「意識がないので無理して見舞いに行かなくてもいいよ」と言ってくれていた。 ところがだ。病室に着くと姉は目をパッチリ開けて「よく来たね。○君(私の次男)、結婚おめでとう」はっきりした口調でわたしに話しかけてきた。短い時間たったが、きちんと会話をして帰った。姪にこの話をしたら「信じられない」と絶句した。後にも先にも意識が戻ったのは、わたしが見舞いに行った瞬間だけだったそうだ。 ![]() *「虫の知らせ」(日本語と日本文化で学ぶ笑える国語百科事典より転載) 虫の知らせとは、人間の体内に住むといわれる昆虫がその人にもたらしてくれるニュースという意味で、第六感や霊感による予知情報のことをいう。第六感や霊感による予知能力が、一般的にあまり楽しいお知らせをもたらさないように、「虫の知らせ」も近しい人の死や災難のお知らせが主であり、もっと明るいニュースをわれわれに知らせてくれれば、虫たちともう少し親しくしてやってもよいのにと思わせる。 人間の体内に住むといわれる「虫」は、「虫の知らせ」のように予知能力をつかさどったり、「虫のいどころが悪い」「虫が好かない」というように感情を左右したり、「虫が起きる(子どもが病的な症状を起こす)」というように病気の原因になったりと多方面で活躍しており、人間活動になくてはならない存在となっている。(JPZB) 【ご参考】 *谷汲山華厳寺から「レヴィン文化財プロジェクト」発進! http://kitakamayu.exblog.jp/3123747/ *シンクロニシティ(フリー百科事典『ウィキペディア』より転載) シンクロニシティ(英語:synchronicity)とは、いわば「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」「同時性」「同時発生」とも言う。 カール・ユングによって提唱された独: Synchronizitätという概念の英訳である。従来知られていた「因果性」の原理とは異なる、複数の出来事を離れた場所で、同時期に生起させる原理である。 何らかの一致する出来事(何か意味やイメージにおいて類似性を備えた出来事群)が、離れた場所で、ほぼ同時期に起きることがある。だが、複数の事象が、従来の「因果性」の説明方法ではうまく説明できない場合がある。そうした、同時期に離れた場所で起きる、一致する出来事を説明するためのある種の原理、作用として提示されたのがシンクロニシティである。 (中略) なお、ユングは様々な著書で、人間の意識同士は実は、集合的無意識(collective unconscious)によって、そもそも交流しているということは述べている。集合的無意識が、人々の心、人々の主観的な意識に入ってゆく過程を、ユングは「個性化」と名付けた。またユングは個々の人の意識が集合的無意識へと反映されるプロセスもあるとしている。人の心は表面的には個別的であるかのように見えてはいても、実は根本的には交流しているのだとしているのである。 ユングは、coincidences コインシデンスについても、(その全てではないにせよ、少なくとも一部は)単なる「偶然」によって起きているのではなく、co-inciding(共に、出来事を起こすこと)、と見なしたのである。 5-8 シンクロニシティ(超心理学講座―「超能力の科学」の歴史と現状―明治大学情報コミュニケーション学部教授 メタ超心理学研究室 石川 幹人) ▲
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| 2015-06-24 11:18
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命のつながりと次の世代への継承を確認:お墓移転② ![]() ![]() 住職の話は心にしみた。焦臭い世の中になった。寄進した人の大切な存在は学徒出陣で太平洋の藻屑と消えた。龍隠庵を参拝し、太平洋の方向を見詰める慈愛の中に深い悲しみをたたえている平和観音に手を合わせて欲しい。ちなみに仏師は「とげぬき地蔵尊 高岩寺」の新しい「洗い観音」の制作者である彫刻家の八柳尚樹さん。八柳さんは1年半の歳月をかけて平和観音を彫ったという。 ![]() 平和観音 ![]() 日本のハワイ真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争の戦跡です。 戦いはかくも大きな戦域となり、 広島、長崎の原爆投下により国土は焼土化、 漸く戦争は終わりました。 しかしここ鎌倉の穏やかな海面を5,500km南下した海底には、 かくも多くの戦死された方々のお骨が父母の胸に抱かれることも無く沈んだままです。 また山野に於ける激戦で弾丸尽き食料尽きながらも闘い続け、 「力」尽きて戦死された方々のお骨もなす術も無く放置されたままです。 そして終戦となり既に60有余年を経ました。この戦争を語れる人も少なくなってゆきます。 今日の日本の平和は、かくも多くの人々の犠牲の上に築かれた事を語り伝え、 御冥福を祈り観音様に「平和」の道をしっかりと歩む事を誓いましょう。 ▲
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| 2015-06-15 09:40
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親の介護と並ぶ団塊世代の共通の悩み:お墓移転① ![]() 6月6日、北鎌倉・六国見山の麓にある龍隠庵(円覚寺の塔頭、臨済宗=禅宗)で、義父や義母の両親ら5人の納骨法要がささやかに執り行われた。参列者はわたしたち夫婦と次男の3人。当初、参列予定だった義母は圧迫骨折、長男は孫の運動会と重なり、参列が叶わなかった。 納骨の後の会食の席で「ここにたどり着くまでにはいろいろな問題があったはず。でも命のつながりと次の世代への継承を確認できてよかったと思います。人間は命がつながっていることに考えが至らず、勝手に生きていると思いがちです」と太田周文住職は、わたしたちに語りかけた。 ![]() 移転の話が持ち上がったのは昨年の春。義父や義母の両親の菩提寺の帰命寺は浄土真宗。改葬先の龍隠庵は禅宗。ただし龍隠庵のポリシーは「あらゆる宗派を受け入れる」。冷静に考えれば、宗派の違いに関しては、何も問題はないはずなのだが、そうでもなかった。お墓の移転に1年以上かかったが、義母が安堵の表情を浮かべ、次男が住職の語りかけに真剣に耳を傾けていたことを思えば、苦労しただけのことはあった。 ◇改葬の手順・手続き(エンディングパーク、改葬、故郷のお墓をお引越しなどを参考にした) (1)改葬先の墓地・霊園を決めて「受入証明書」を発行してもらう (2)現在の墓地の管理者に、「埋葬証明書)」を発行してもらう (3)現在の墓地にある市区町村に「改葬許可申請書」をもらう (4)「改葬許可申請書」に必要事項を記入し「受入証明書」と「埋葬証明書」と一緒に現在の墓地にある市区町村に提出して「改葬許可証」を発行してもらう (5)現在の墓地管理者に「改葬許可書」を見せて、遺骨を取り出す。その際に「閉眼供養」「抜魂供養」「遷座法要」「遷仏法要」等を行う (6)現在のお墓をさら地にして戻す ![]() ![]() (7)「改葬許可証」を改葬先の墓地管理者に提出して遺骨を埋葬する。その際に「納骨法要」「開眼供養」「建碑法要」等を行う。 「納骨法要」が行われた龍隠庵本堂 ![]() 義父たちの遺骨は面高湾を望む海に近い場所から六国見山の静かな森に移った。安らかに眠ってくれることを願っている。 ![]() ![]() ▲
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| 2015-06-12 19:14
| シリーズ・団塊世代
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今後も明るく楽しく平らに ②団塊サミットSPin建長寺第2部 妻の実家のお墓の移転に伴い、5月22日から27日にかけて6泊7日で、北鎌倉と長崎県西海市の間を車で往復した。その距離は約2,600キロメートル。西海市にある菩提寺(浄土真宗)に預かってもらっていた義父や義母の両親らの骨壺を引き取り、車に積んで帰宅した。 魂抜きの供養は義兄や義父の本家の関係者が立ち会って4月11日に済ませた。納骨供養は6月6日、わたしたち夫婦、義母らが立ち会い、改葬先の北鎌倉の臨済宗のお寺(あらゆる宗派を受け入れる共同墓地)で執り行う予定だ。 昨年の4月20日に「団塊サミットスペシャルin建長寺 団塊世代よ、帰りなんいざ地域、故郷へ―あれから10年、これから10年―」を開催した。この時、深い議論できなかったが、親と自分自身の介護の問題、それに故郷のお墓の移転問題が団塊世代の前に大きく立ちはだかっていると思う。 *お墓の引越し&改葬手続きノウハウ(allabout) 妻の兄弟は3人。義兄は北九州、義妹が広島在住で、それぞれが事情を抱えているために、8年前から長崎市内で二人暮らしをしていた義父(当時94歳)と義母(当時84歳)を北鎌倉の自宅でお世話をするようになった。わたしの場合、父は早くに亡くなっているが、故郷に住む92歳になる母は、姉が面倒を見てくれているので、親の介護の問題は発生していなかった。 3年前、義父が亡くなり、西海市の面高湾が見渡せるお墓に義父の遺骨を納めた。これで義父も安らかに眠れるだろうと思ったが、そうはならなかった。西海市は西の果てで、公的交通手段がない。 北鎌倉から墓参りに行くには長崎空港でレンタカーをチャーターする必要がある。西海市を離れた義兄や義妹にとっても墓参りが大変なことはいうまでもない。今回のお墓の移転は無縁仏になってしまうのを避けるためだ。(長い目で見ればいずれ無縁仏になる運命なのだが…) 約2,600キロメートルの車の長旅は、東名高速道路のリニューアル工事に伴う交通規制が重なり、かなりきつかった。人間、生まれることも、生きることも、死ぬことも、死んでからも大変なんだと痛感した。 ▲
by kitakamayunet
| 2015-05-28 12:35
| シリーズ・団塊世代
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