カテゴリ
全体 プロフィール 会則 速報 講演・寄稿・メディア シリーズ・団塊世代 春夏秋冬 レヴィン文化財プロジェクト 無名人からの伝言 式年東大社銚子御神幸祭 鎌倉の美しい里山継承PJ シリーズ「里山ってなんだ!」 東庄と鎌倉 鎌倉の世界遺産登録 ガイドブック・プロジェクト 東日本大震災 鎌倉団塊プロジェクト 団塊探偵団(神奈川新聞) 唯我独尊(コラム) 現代に生きる禅の精神 野口農園 交遊録 台峯&マンション問題 インターネット新聞JANJAN Yahoo!セカンドライフ 大船観音前マンション建設 洞門山宅地開発問題 北鎌倉テニスコート築造問題 北鎌倉の恵みプロジェクト 個性派ショップの優れもの BOOK mixi入口 イベント案内 北鎌倉匠の市・展 イベント月別一覧 リンク 北鎌倉グルメ散策 北鎌倉でお買い物 男の料理教室 璃史写真館(非公開) 発見!体験!もう一つの鎌倉 六国見山日照権伐採 「元治苑」にマンション建設 璃史&七緒(非公開) 未分類 以前の記事
お気に入りブログ
最新のコメント
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
20年に1度の東総地方最大のお祭り「神幸祭」の準備開始 神幸祭の主要舞台を事前取材 ![]() ![]() ▽由来は白い布を玉座に敷いたことから 「東庄町史研究第2号」によると「景行天皇の御代五十三年、天皇親しく皇子日本武尊東夷平定の跡を巡られ、上総国より海路当知に渡御、白旗の行宮に駐られること七日、十月庚申侍臣春臣命に勅して、八尾山に一社を営み、玉依姫命を祀きまつらしめ、東宮又は八尾宮と称え奉られたという。即ち現在の東大社である」が、東大社の創立ならびに由緒である。 *「白旗の宮」下の棚田 ![]() 「白旗の宮」の由来に関しては「東大社式年銚子大神幸について」(平成15年度 東庄町図書館学級講座)の中に「(白旗の宮の石宮付近に景行天皇は)船でお着きになり、そのところに行在所を設け、土地の乙女の織った白い布を玉座に敷いたので白旗又は白幡の郷、又幡敷の郷と呼ばれるようになったと言われ、現在白旗の宮の石宮が祀られている」と書かれている。 故郷を離れて早、42年。現在は北鎌倉に住んでいる。故郷を思う気持ちは人一倍強い。まだ見たことのない20年に1度、しかも千年の歴史を持つ第54回神幸祭(2010年4月10日、11日、12日)の記録を残そうと決意した。神幸祭は東総地方最大のお祭りと言われるだけに、とにかくスケールが大きい。東大社の神輿は、東庄町宮本から銚子市まで片道約30キロメートルを、2泊3日かけて渡御する。参加者は約3000人、費用は7000万円。 記録を残す目的は、神幸祭の次なる世代へのスムーズな継承を願ってのことだ。神幸祭の意義、意味を分りやすく記事と写真で、1冊の本にまとめたいと思う。昨年、還暦を迎えたが、気力体力はまだ十分ある。20年後は80歳である。どうなっているかは「神のみぞ知る」の世界だ。今回がラストチャンスだと思っている。 ▽御産宮・浜鳥居、山口宮三郎家などを訪問 目的に沿う本を完成させるには、事前の周到な取材が不可欠となる。しかも、東大社の創立ならびに由緒が、大和朝廷の日本統一、言い換えると日本の成り立ちに関係しているだけに、日本建国の歴史の基礎も学ぶ必要がある。生憎、この領域は無知に近い。北鎌倉に居を構え、週3日から4日は継続雇用で出社している。かなり、しんどい作業になることは間違いない。しかし、神幸祭の日程も決まった。既に東大社には、神幸祭に寄付した氏子の名簿一覧が張り出されている。 ![]() 待ったなし、「善は急げ」である。とりあえず3月23日から25日にかけ、*神幸祭の開催される舞台に足を運んだ。祭りのイメージを掴もうと考えた。東大社の飯田眞也宮司にご挨拶し、東大社を参拝した後、ポイントなる場所(「白旗の宮」→船曳→豊玉姫神社→雷神社→桜井御産宮・浜鳥居→小舟木神遭塚→山口宮三郎家→山口六兵衛家→渡海神社→外川港=お浜降りの場所)を訪れた。東大社常任理事で、東庄郷土史研究会会員の飯田佐武郎さんに案内をお願いした。 *「オウジン様の御神幸に何べんあった」が長生きの合言葉 神幸祭の内容(「東庄町史研究第2号」より) 満二十年毎に、四月八日の例祭を中心に、前後約十日間に亘って、式年神幸祭が執行われる。堀川天皇の康和四年(1102)、海上郡高見浦(銚子市高見一体)にわかに海鳴り起こり、震動月余に及んで止まなかったので、四月八日、総社たる當社の神輿初めて高見に幸し、祭祀を行うに及び、海上忽ち浪静まり、爾来大漁豊作が続き、天皇は総社玉子大明神の称号を賜ったという。 これにより毎年この日を以つて同地に渡御せられたが、天永元年(1110)に至り二十箇年一度の制とし、その間隔年桜井の浜(今の銚子市桜井町利根川畔)に神幸される事となった。式年の神幸は「大みゆき」とも言い、また「桜井みゆき」に対して「銚子みゆき」とも呼ばれる。 四月八日早亘神輿出御、地元青馬、宮本両部落青年奉…氏子並びに関係諸郷の芸能を先供とし、御手洗及び敷薦塚(諸持)を経て、桜井御産宮に着御、古来の祭典を奉仕、それより大利根の流れに沿い、二十有余の町内の送迎を受けつつ高神に至る。この間、小舟木神遭塚では、當社に格別縁故深い、小見川町貝塚の豊玉姫神社及び海上町見廣の雷神社両社の神輿も合わせ奉安して、厳かな祭典が行われる。 高神では渡海神社に御駐泊、翌日浪切旗を先頭に、外川の海中に渡御、続いて浜辺の広場で、厳粛盛大な祭祀が斎行され、裃姿の宮三郎以下山口一門が神輿に海水を濯ぐ儀がある。終って神輿は旧跡を経て、山口宮三郎(一般にミヤサブという)宅に渡御される。先ず海水に濡れた水引絹を徹して、同家より献る新しいのに替え、祭典が執行われる。 水引絹は、本社鎮座地八尾山から涌き出でて北方に流れる水を引いて水田を耕す、今郡、谷津、羽計及び鹿野戸の四部落と、同じく東に流れる水によって耕作する、諸持、今泉、宮原及び桜井の四部落から、神輿に巻くために献る絹で、桜井神幸の時は北側東側交互に奉納する。 宮三家の祭典が終って、おすべらかし礼装の山口家の乙女が進んで、静かに扇を三たび挙げ、「おうじん(東大社)様お発ちませ」と申す声を合図に、神輿は遷幸の途に着かれる。かくして銚港神社に御駐泊、白幡神社等に御駐レンの上夫々奉迎の祭典が行われる例である。この神幸に際し、特に関係深い豊玉姫神社及び雷神社の神輿が同行されるが、往古は氏子十二郷より十二基の神輿が出で従われたという。 尚、この大神幸には、古来氏子並びに旧縁の各郷は、何れも時代風俗や伝統の芸能を持って供奉したが、現在は次の緒郷が奉仕する。即ち海上倉橋郷は露払いとして弥勒三番叟(現在千葉県無形文化財に指定)を演じつつ先頭を進み、東庄町羽計郷は大名行列、今郡郷は源頼朝の富士の巻狩、谷津郷は剣舞(53回から脱落)、石出郷は芸座(上芸座)手踊、今郡郷は芸座(下芸座)手踊、粟野郷・八重穂郷は虎屋大漁丸、銚子市緒持郷は剣舞赤穂浪士、宮原郷は芸座手踊りを以って、先供を仕奉る。 沿道は至る所両側に奉迎拝観の人垣を築く中にも、要所二十有余箇所には所謂関所を設け、殿様を始め家老、使者受、門番等の諸役が詰めて応対、行列を迎え、又関所の下手には座敷を構え、土地の老幼家族は勿論、全国各地から寄り集う親類縁者悉くここに会し、間近に神輿を拝し、心ゆくまで芸能を鑑賞して、長い春の日の移るのを忘れる。『オウジン様の御神幸に何べんあった』というのが、地方一帯の長生きの合言葉である。 ▽現場はまさに生きた教科書 わずか3日間だったが、今回の事前取材で、来年の神幸祭の記録出版に向けた大きな手がかりを得た。現場はまさに生きた教科書だ。雲井岬と「白旗の宮」の石宮の鎮座されている地域の標高はほぼ同じ。雲井岬からは眼下に水田地帯が広がっている。石宮からは林にブロックされて直接、水田地帯は肉眼で見ることはできないが、雲井岬と同じように下は水田地帯である。 神話は史実そのものではない。しかし、史実ではないからといって、神話を全否定するのは間違いだと思う。神話は何らかの史実を直接的ではないが、オブラートに包み込むような形で私たちにメッセージを遺している。これまで雲井岬の地名について、まったく意識していなかった。しかし、岬は「海中、または湖に突き出した陸地のはし」(広辞苑)なのだ。 古の時代、雲井岬および石宮の下の水田地帯は間違いなく*海底だったのだ。ちなみにこの水田地帯の一角にあるわたしの実家のある地区の名は「谷津」。「津」は「船舶の停泊するところ。ふなつき。港」(広辞苑)。「(白旗の宮の石宮付近に景行天皇は)船でお着きになり…」が東大社の創立ならびに由緒だと書いた。大和朝廷の代表者がわたしたちの故郷に日本統一というも目的を持って武装した船団を編成して訪れたのだ。 *縄文海進(じょうもんかいしん) 縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より3~5メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった。縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部でのみ発見されたことから海進説が唱えられた」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 創立ならびに由緒については繰り返しになるが、東大社史(昭和5年発刊)は「人皇第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊東夷を征し、凱旋の御途すがら伊勢の能褒野(のぼの)に崩じ給う。天皇御追慕の御情やる方なく、遂にその御平定の跡を親しく巡視せんと思立たせ給ひて、五十三年八月伊勢に幸し、転じて東海に入り、冬十月上総国に至り、更に海辺を巡り、当国八尾岡渡御し給う。群卿交々奏して、還興を勤奉れども、天皇は更に海路より陸奥国に幸し給はんと思し給ひ、行宮に駐りますこと七日、十月甲午春臣命に勅して一社を営み、玉依姫命を祀きまつらしめ給ひ、東宮又は八尾社と称へ奉るといふ。本社即ちこれなり」と記している。 日本統一に向けて東奔西走する景行天皇と日本武尊の名前は「記紀神話」に登場する。「記は『古事記』、紀は『日本書紀』をさし、両書に載せられた神話を総称するときの呼称。…そのもっとも重要な柱は、天皇家の地上支配のいわれとその正統性を語ることにある。それゆえに、記紀神話は国家神話・王権神話と呼ばれ、天皇家の神話と呼ばれる…」(『日本民俗大辞典』 吉川弘文館) 古事記は712年(奈良時代)に完成した現存する日本最古の歴史書で、「神話・伝説・歌謡を含み、全編天皇家を中心とする国家統一の思想で貫かれている」(広辞苑)。全3巻。一方、日本書紀は、720年(奈良時代)に出来たわが国最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの事跡を漢文で記述した編年体の史書。全30巻。記紀神話によると、景行天皇の出生は紀元前13年、死去は130年12月24日。在位は景行天皇元年7月11日(71年8月24日)~ 同60年11月7日(130年12月24日)だ。在位中の皇居は奈良県の纒向日代宮。 *【史実の年表】(『日本の歴史02 王権誕生』「講談社 寺沢薫」より) 57年 正月、倭の奴国王が(中国の)後漢に朝貢し、光武帝より印綬を授かる(「『後漢書』東夷伝」福岡志賀島で発見された「漢」倭奴国王)<弥生時代中期> 210年ごろ 卑弥呼を倭国女王に共立し、「倭国乱」終わる。<新生倭国=ヤマト王権の誕生と年(王宮)の発生>(奈良纏向遺跡の建設と庄内式土器の発生)<弥生時代後期> 248年 この頃、卑弥呼死す。男王を立てるが国中服さず、卑弥呼の宗女で十三歳の台与が女王となり国中安定する。台与、(中国の)魏使張政らを送還し、魏帝に男女生口(奴隷)三十人などを献上する。<古墳時代前期> 266年 台与政権終わり男王立つ。(纏向石塚古墳、纏向ホケノ山古墳)<古墳時代前期> 270年前後 この頃、安定化した(権力や経済力の象徴である)巨大前方後円墳の築造始まる。(奈良・箸墓古墳の築造)<古墳時代前期> ▽数十隻の武装船団が航行 景行天皇の足跡と意味について、東総歴史研究同好会会員で元千葉県大利根博物館長の大木衛氏は「東庄の郷土史第21号」(2005年東庄郷土史研究会編)に寄稿した「第五十四回 東大社式年銚子大神幸の意義と系譜」と題する論文の中で、次のようにとても分りやすく解説されている。 「東国地方の蝦夷を治めるため、焼津を経て、浦賀水道で、海神の怒りで暴風となったので、妃の弟橘姫が海に身をなげて、尊を無事、上総(恐らく木更津市)へ上陸することができた。次いで、日本書紀の記録のように、上総から房総半島を経て、九十九里を眺ながら、現在の飯岡町から八日市場市に開口していた椿海に、軍船として数十隻の武装船団が航行したと考えられる。当時の地形と地名から、太平洋の荒波を避けて湾入していた。椿海は下総台地の奥地にある。東庄方面へ航行し、その折に飯岡の玉ノ浦や旭市の芦戸(網戸)を通過したことが読みとれる。日本武尊の船団は数十隻と考えられ、東庄町で最も香取の海に近い船曳の地に舟を陸上に引き上げての作業を行った地と考えられる。地形的に、現在の谷津(筆者・野口の出身地)か今郡にかけての旧溺谷の雲井岬に近い地に上陸したと考えたい。軍船には二十数名弱が乗員とされる。船団に鏡をかけ、武装した大和国家の先兵に対して、戦わずして服従したことが日本書紀の記録から読みとることだができる」 ▽海中渡御は禊の儀式 「日本古代文化の探求 古事記」(社会思想社 上田正昭・編)に、外川の海中に渡御に関係する興味深い記述があった。 「まわりを海に囲まれた日本では、当然、海を対象とする祭祀儀礼が、古来さまざまに行われてきた。たとえば、太平洋側の、三陸海岸から房総・湘南沿岸にかけての地域では、春先から秋口にかけて、浜降りとか潮迎え、お船祭、天王祭などとよばれる、海辺を祭場とする祭りがさかんに行われる。町の高み、あるいは山中に鎮座する社の神輿を海岸に降ろしてきて、水際の仮屋で祭典を行い、神輿を海に入れて揉み合ったり、神霊を船に奉安して海中渡御を行ったり、あるいは、岬や島にある奥宮へ渡御をし、帰途船の競漕をもよおしたりする。神輿を浜に降ろす、あるいは神輿を海中に入れる理由については、おおかたの土地では、神さまが年に一回なさる禊の儀式だといい、夏場にこれを特に行うのは、災厄を海に流す意図があるからだと説明している。が、また、その禊をする場所、仮屋を設ける場所は特に、遠い昔御祭神がはるか海上から流れ着いたと伝える土地が多く、それらの地では、浜降りは山上の神が浜へ降りるのではなく、御祭神が海からこの地に上陸された時のさまを再現するものだと言っている」 ▽祭神が海神の娘に納得 ![]() 東大社の杉の大木が林立する見事な森は、現在でも約1ヘクタールもあるという。このような東大社の森に象徴される下総台地の緑が育んだ湧水が、水田地帯へ農業用水を供給してきた。水引絹を神輿に巻くために奉納するのはきっと、このことへの感謝の表れに違いない。美味しいコメの重要な要素の一つが水である。わが故郷のコメは間違いなく美味しい。 *雲井岬から見た水田地帯 ![]() また、東国地方平定を主要命題としていた大和朝廷にとって、地理的にみて東北地方や甲信越地方への展開可能な東庄町は、格好の前進基地と想定された。地理的には遠く感じるが、「日本統一」というキーワードからすると、大和朝廷と東庄町の“距離”は極めて近かった。 ①祭神が玉依姫命(海神の津見大神の娘)である②東大社略記に「(東大社は)古来国家安泰、家内安全、五穀豊穣、大漁満足又授子安産の信仰の厚い神社である」と「国家安泰」「五穀豊穣」「大漁満足」の文言が盛り込まれている③堀川天皇の宣旨で神幸祭がスタートした―ことも、時計の針を巻き戻して、この地域の成り立ちを考えれば、容易に理解できるだろう。 ▽「ああ、おうじん(東大社)様の祭りだね」 ![]() 神輿を迎える銚子市の山口六兵衛家の氏神様の前には、東大神の名前が刻まれた石碑が建立されていた。また、外川港で漁師さんに「お浜降りの場所はどこですか」と訊ねた。すると漁師さんは「ああ、おうじん(東大社)様の祭りだね」といって、その場所を指差してくれた。神幸祭の正式名称が「東大社式年銚子大神幸祭」となっている理由も、この一言で納得である。 ![]() 今回の事前取材では、かねてから疑問に思っていたことに対する、幾つかの答えをもらった。とはいっても、わたしの神幸祭、古代史に関する知識は、今尚はなはだ貧弱である。そうした中で、心強いのが東庄郷土史研究会と東総歴史研究同好会の皆さんの協力である。24日、銚子市内に1泊したが、東庄郷土史研究会と東総歴史研究同好会の有志の方々に、懇談の席を設けていただいた。この席でも貴重な助言を頂いた。これからもいろいろとご教授をお願いしたい。 *東庄郷土史研究会と東総歴史研究同好会の有志との懇親会の様子 ![]() *この記事は「東庄の郷土史」に寄稿した文章に加筆したものです。 ▲
by kitakamayunet
| 2009-05-13 19:06
| 式年東大社銚子御神幸祭
|
Trackback(1)
|
Comments(4)
2010年は史実に基づいた「式年東大社銚子御神幸祭」として開催 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() まだ見ぬ「神幸祭」に思う ふるさとの山に向かいていうことなし ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木 間もなく還暦を迎える。人間の本性には「帰郷本能」が備わっているように思えてならない。その本能は人生という「旅路」が、終わりに近付けば近付くほど強まる…。例えば曹洞宗の開祖で、日本の誇る世界的な思想家でもある、あの偉大な道元禅師。「旅路」の終わりが来たことを悟った道元禅師は、布教活動の拠点の越前を離れ、生まれ故郷の京都に向かった。人は皆、故郷が恋しいのだ。 ▽まぶたに浮かぶ東大社 誰にでも遠く故郷を離れている時に、必ずまぶたに浮かぶ故郷を象徴するシーンがいくつかあるはずだ。私にとって氏神さまである東大社がその一つだ。娯楽の少なかった子ども時代。東大社の春と秋の例祭の際、境内に出店されていた露店での買い物が、最大級の楽しみだった。 高校時代は自宅から東大社まで、小川に沿って続くあぜ道を、愛犬のシェパードの「クロ」と一緒に何度も何度も走った。雲井岬から眼下に広がる水田地帯を見るのが好きだった。特に初夏。青々とした水田を渡る風が涼やかだった。東大社の豊かな森に貯えらえれた地下水が時の経過を経て、地表に湧き出て小川と化し、氏子である農家に実りの秋を保証していたのだ。 ▽次回は是非ともこの目で 残念なことに、私は東大社の20年に1度の東総地方最大のお祭りといわれる「神幸祭」を実際に見たことがない。正確には見た記憶がないといった方が、正しいのかもしれない。6人兄弟である末っ子の私は、高校卒業と同時に18歳で、故郷の東庄町谷津を離れた。私が故郷にいた時に行われた、第51回「神幸祭」は1950年。2歳の時だった。多分、家族に見物に連れて行ってもらっていたはずだが、まったく記憶がない。 第52回目の1970年は、大学生の時だった。多分、クラブ活動の春期合宿で、どこかで缶詰め状態になっていた。第53回目の1990年は、東京本社にいたが、仕事の都合で見に行けなかった。次回「神幸祭」は2010年だ。是非とも、「神幸祭」をこの目に焼き付けてみたい。多分、心身共に元気で「神幸祭」を見ることのできるラストチャンスのはずだ。 ▽飯田秀真宮司には思い出が 「神幸祭」については「東庄町史研究第2号」(香取郡東庄町史編さん委員会)に飯田秀真氏(故人)が「東大社について」と題する論文の中で、目的、歴史、内容について詳しく説明されている。私のような「神幸祭・初心者」にも分かりやすかったので、要点を紹介したい。 飯田氏は東大社の宮司をされていた。この他、東庄町文化財審議会長、国学院大学講師、京都国学院講師、明治神宮祢宜、熱田神宮権宮司、内閣祝典記録編集委員など数多くの役職にも就かれた。飯田氏は、故郷が誇りとすべき国学者であり、歌人、歴史学者でもある。 光栄なことに、この飯田氏に私は思い出がある。確か、私が小学校6年の時だった。5月5日のこどもの日に飯田氏から、母校の橘小学校の生徒を代表して賞状をいただいた。賞状は東大社の神殿で、飯田氏から直接手渡された。父と母がとても喜んでくれた。実家の居間には、この賞状が今も大切に飾ってある。 ▽総社たる東大社の神輿に、雷神社と豊玉姫神社の神輿が同行 「東大社について」………………………………………………………………………… 飯田 秀真 [鎮座地]千葉県香取郡東庄町宮本字八尾山 [社名]東大神又は東大社 最も古く東宮又は八尾山と称し、堀川天皇の御代宣旨あって、惣社玉子大明神の称号を賜うと言う。……古来または俗にオウジン様と唱え、その名遠近に親しまれているが、これは王子大明神のオウジが訛ったものと思われる。 [祭神]玉依姫命。海神の御女。神武天皇の御母君。 [創立並びに由緒]景行天皇の御代五十三年、天皇親しく王子日本武尊東夷平定の跡を巡られ、上総国より海路当知に渡御、白旗の行宮に駐られること七日、十月庚申侍臣春臣命に勅して、八尾山に一社を営み、玉依姫命を祀きまつらしめ、東宮又は八尾宮と称え奉られたという。即ち現在の東大社である。…… [祭祀]……満二十年毎に、四月八日の例祭を中心に、前後約十日間に亘って、式年神幸祭が執行われる。堀川天皇の康和四年(1102)、海上郡高見浦(銚子市高見一体)にわかに海鳴り起こり、震動月余に及んで止まなかったので、四月八日、総社たる當社の神輿初めて高見に幸し、祭祀を行うに及び、海上忽ち浪静まり、爾来大漁豊作が続き、天皇は総社玉子大明神の称号を賜ったという。これにより毎年この日を以つて同地に渡御せられたが、天永元年(1110)に至り二十箇年一度の制とし、その間隔年桜井の浜(今の銚子市桜井町利根川畔)に神幸される事となった。式年の神幸は「大みゆき」とも言い、また「桜井みゆき」に対して「銚子みゆき」とも呼ばれる。 四月八日早亘神輿出御、地元青馬、宮本両部落青年奉…氏子並びに関係諸郷の芸能を先供とし、御手洗及び敷薦塚(諸持)を経て、桜井御産宮に着御、古来の祭典を奉仕、それより大利根の流れに沿い、二十有余の町内の送迎を受けつつ高神に至る。この間、小舟木神遭塚では、當社に格別縁故深い、小見川町貝塚の豊玉姫神社及び海上町見廣の雷神社両社の神輿も合わせ奉安して、厳かな祭典が行われる。高神では渡海神社に御駐泊、翌日浪切旗を先頭に、外川の海中に渡御、続いて浜辺の広場で、厳粛盛大な祭祀が斎行され、裃姿の宮三郎以下山口一門が神輿に海水を濯ぐ儀がある。終って神輿は旧跡を経て、山口宮三郎(一般にミヤサブという)宅に渡御される。 先ず海水に濡れた水引絹を徹して、同家より献る新しいのに替え、祭典が執行われる。水引絹は、本社鎮座地八尾山から涌き出でて北方に流れる水を引いて水田を耕す、今郡、谷津、羽計及び鹿野戸の四部落と、同じく東に流れる水によって耕作する、諸持、今泉、宮原及び桜井の四部落から、神輿に巻くために献る絹で、桜井神幸の時は北側東側交互に奉納する。宮三家の祭典が終って、おすべらかし礼装の山口家の乙女が進んで、静かに扇を三たび挙げ、「おうじん様お発ちませ」と申す声を合図に、神輿は遷幸の途に着かれる。かくして銚港神社に御駐泊、白幡神社等に御駐レンの上夫々奉迎の祭典が行われる例である。 この神幸に際し、特に関係深い豊玉姫神社及び雷神社の神輿も同行されるが、往古は氏子十二郷より十二基の神輿が出で従われたという。尚この大神幸には古来氏子並びに旧縁の各郷は、何れも時代風俗や伝統の芸能を以つて供奉したが、現在は次の諸郷が奉仕する。……東庄町羽計郷は大名行列、今郡郷は源頼朝富士の巻狩、谷津郷は剣舞、……沿道は至る所両側に奉迎拝観の人垣を築く中にも、要所二十有箇所には所謂関所を設け、殿様を始め家老、使者役、門番等の所役が詰めて応対、行列を迎え、又関所の下手には桟敷を構え、土地の老幼家族は勿論、全国各地から寄り集う新類縁者悉くここに会し、真近に神輿を拝し心ゆくまで芸能を観賞して、長い春の日の移るのも忘れる。「オウジン様の御神幸に何べんあつた」というのが、地方一帯の長生きの合い言葉である。…… ▽ 父は大石内蔵助、長兄は使者役 私の生まれ育った谷津は、東大社に秋の実りを保証してもらう「お礼」として、神幸祭の時、神輿に巻く水引絹を提供する同時に、剣舞を供奉していたのだ。実家はどのような関わり方をしたのだろうか。母のウメに聞いてみた。ウメによると、第50回目の1930年は、剣舞「忠臣蔵」を供奉し、当時26歳だった父の新(故人)が大石内蔵助を演じたという。 第51回目の1950年は、新が谷津郷の区長として剣舞を仕切り、当時14歳だった長兄の仁(故人)が、一行の使者役を演じたという。長兄は陣笠を被り、母が手縫いした裃を身に着け、部落の境界線ごとに設けられた関所で、口上を述べたという。「まだ、中学生だったのに、立派に出来て。『百姓にはならんで、役者になれ』と掛け声までかかったんだ。祝儀ももらったんだよ」。母はまるで昨日の出来事のように、当時を懐かしむ。 ▽高度経済成長と共に「行列」離脱 しかし、谷津は第52回目の1970年以降、神幸祭の「大名行列」から離脱したという。元々谷津は、所帯数が27戸と隣接する部落に比べて、規模が小さい。大名行列を構成するには、約20人の大人が必要になる。本来なら大人が演ずべきだった使者役を、中学生だった兄がを務めたのは、弱小部落の谷津には、男の大人の数がいなかったからだ。「準備も大変で、仕事にならなかったから」と母。 谷津が「大名行列」を離脱した1970年代は、日本は高度経済成長の真っただ中にあった。私たちのような若年労働者が、地方から都市へ集団移住して高度経済成長を支えた。結果として日本は、世界有数の経済大国になった。一方で、地方の過疎、高齢化と都会の過密と孤独化という深刻な事態を生み出した。谷津の「大名行列」離脱は、弱小部落という現実に、歴史の大きな流れが追い討ちをかけた結果といえるだろう。 ▽「神幸祭」は大いなる文化遺産 特別寄稿するに当たり、さまざまな文献を調べると同時に、元旦の日に帰郷し、故郷の思いでの地をこの目と足で確認した。年賀の参拝客の姿があった東大社の豊かな森は、私を暖かく迎えてくれた。旧橘中学校の跡地の高台から、滔々と流れる利根川を眺めた。流れの先は、太平洋の大海原だ。下総大地のほくほくとした黒土で元気に育つ、キャベツ、長ネギから元気をもらった。 「神幸祭」は、肥沃な下総台地、悠久の利根川、果てしなき太平洋という類い稀な「風光」の中で育まれた、大いなる文化遺産であることを痛感した。先人が努力を積み重ねて残してくれたこの遺産を大切にしたいと思う。そして、故郷の谷津部落が、「神幸祭」の「大名行列」に復帰する日の来ることを念じたい。 東大社社務所前で記念撮影 いざ出陣!(最前列中央が仁) ![]() 当時、神幸祭は庶民の最大の娯楽だったかも (写真中央右が使者役として口上を述べている仁) ![]() 凛々しく口上を述べる中学生の仁 ![]() ここには昭和20年代の農村風景が… ![]() 年賀の参拝客の姿が見える東大社 ![]() 下総台地から見た利根川、流れの先(右)は太平洋だ ![]() *この原稿は東庄町郷土史研究会からの依頼によって、「東庄の郷土史」に寄稿した。依頼者の了解を得てこのHPに掲載した。 ▲
by kitakamayunet
| 2008-07-17 09:30
| 式年東大社銚子御神幸祭
|
Trackback(2)
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||