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父の従兄弟が昭和天皇と一緒に写真に収まっていた、なぜだ! 「出羽海部屋」の夏合宿:故郷(千葉県・東庄町)の表情② 亡き父に連れられて、野口初太郎という人物に会った記憶がある。千葉県銚子市に住んでいた。小学校に入る前か、あるいは小学生の時だったか。記憶が定かでない。姉によれば、野口初太郎は父の従兄弟だという。私が就職し、実家に帰省したとき、彼は大利根用水の視察に来た昭和天皇と一緒に写真に収まっていた。この写真は額に入れられ、現在も実家の居間に飾ってある。 *大利根用水事業 利根川の水を、笹川地先で揚水して、香取・海上・匝瑳3郡の旧26カ町村に所在する水田8、000町歩に送り、これを灌漑する事業である。その笹川揚水機場のモーターは、850馬力3台。ポンプは、口径1、350ミリ(約4尺5寸)3台。主要水路は、41、685間(75、8キロ)。そのうち隧道が大小20ケ所(4、353間)にわたっている。……工事期間は、昭和10(1935年)3月の起工式から昭和26年(1951年)11月の竣工式まで、10有6年の歳月を要し、…純工事費だけでも1億8、615万余円(その間、米価は1俵15円から4、000円へ変動)となっている。 もちろん、昭和26年に竣工式をあげたものの、それはほんの名ばかりで、幹線の水が関係各町村に届いたという程度であっただけで、その後、ようやく31年(1946年)に至り、はじめて、全地域において利用できるようになった。しかし、これとても、決してかんぜんとはいいえなので、いま立案施行中である支派線計画の実施に期待するところが大きいわけである…(大利根用水事業史刊行会が昭和33年発行した「大利根用水事業史」より抜粋) ▽苦学力行の人 昨年、*利根川の源流を訪ねたことで、利根川に興味を持った。同時に大利根用水と父の従兄弟にも。 *利根川の始まりは大水上山の雪渓の一滴だった!シリーズ:05年夏(8・31~9・1)④「追跡!利根川の源流-奥利根湖-」 父同様に野口初太郎も既にこの世を去っている。母や姉に、野口初太郎のことを聞いてもあまり、、確たる答えは返ってこない。しかし、手がかりはいくつかある。実家に大切に保存してあった父宛の初太郎からの手紙。それに昭和41年に出版された「利根川」(安岡章太郎、朝日新聞社)、「大利根用水事業史」、石碑「野口初太郎先生賛歌」など。 父宛の手紙は8月19日、初めて姉に見せてもらった。差出日は昭和49年8月22日。手紙では「あの写真を後世に残して下さる御心持ちには有りがたく感謝の極みであります」と、居間に天皇と一緒の写真を父が飾ったことに謝意を述べている。 初太郎は千葉県の職員(技師)だった。「大利根用水事業史」は、初太郎について「大正の初め以来、(千葉)県の耕地整理課にあり、大正から昭和にかけて、干潟地区で、大利根用水の根本的な計画や調査に従った。県下における耕地行政・事業の、文字通り、生き字引といってよい人」と書いている。 父宛の手紙によれば苦学力行の人だった。「勿論勤めをやるには中学も出ておらぬ身、苦労をしました。殊に役人務めには最も必要なのは学歴で周囲には大学卒業が多く、私の努力で伸びようとすれば白眼視されたり、圧迫を受けたりして涙を呑んだことがあります…80年の腰弁生活は特に勝れた功績でないが只々馬車馬的に不屈の一生でした」 ▽一個の人格を感じられたことで、心を動かされた 「利根川」(安岡章太郎、朝日新聞社)は、「週刊朝日」に昭和40年8月6日から、翌年1月28日号にわたって「週刊風土記・利根川」というタイトルで連載されたものだ。「利根川を上から下まで歩くつもりで、銚子へ最初に出かけたのは、昨年(昭和40年)の2月である。それからだんだん上流へのぼって、大水上岳の水源地へたどりついたのは7月。そこから、また同じ流れを下り、ほぼ1年ぶりで再び銚子の河口へもどって来たことになるわけだ」(「利根川」の「河口で」より) 野口初太郎は「利根川」の「大利根用水」の項で登場する。安岡章太郎は初太郎のことを、下記のように書いている。 「…実際、大利根用水は大事業である。しかし、これは必ずしも事業の規模がそんなに大きいという意味ではない。これを『大きい』と感じさせるのは、その完成に要した年月の長さと、背後にあってこれを推進した人たちの意欲と努力と情熱の大きさとである。干潟連合事務所の古びた畳の部屋で、この事業を大正期から実際に手掛けてきた野口初太郎氏の話をききながら、そう思った。-野口さんが県から派遣された技師として、この土地へやってきて用水路計画を立てたのは大正9年(1920年)であるが、工事に着工したのは昭和10年(1935)である。つまり、それだけの年数は、地元の反対者の説得やら、県や国への政治工作やらで空費されたわけである。もともと沼を干拓して出来上がったこの土地は、『干潟八万石』の沃土にはちがいないが、水害や旱魃の起こりやすいことは、地形によって明らかである…」 「…この用水の受益耕地は、面積にして水田8千町歩、事業効果としては以前は拠出制度の責任生産量が、反当5表1斗内外だったのに、その後の実際反当収量は6俵、7俵、8俵と、年々上昇をつづけ、全国的に豊作型だった昭和30年には反当10俵であった。…何はともあれ私は、ここで事業の中に一個の人格を感じられたことで、心を動かされた。用水路の幹線を一応見終ったところで、日は暮れかかり、干潟の盆地は薄墨色の空気の底に沈んだが、そんな風景は、いかにも野口さんの篤実で穏やかな風貌と似つかわしく、生涯をかけた事業に着実な成果を上げながら、謙虚に無名のままに消え去っていく人を、この豊穣な盆地は内ぶところに抱えて夕闇の中に溶けて行った。」 ▽鉄牛禅師の志を継いだ人 石碑「野口初太郎先生賛歌」は、笹川揚水機場の近くに建立されている。石碑には「…鉄牛禅師の干潟八万石 その語りを受け継いだ人よ ああ 今その水の流れを この目に この耳に この心に伝えた 大利根用水事業の偉大な父よ 黙々とその身を賭し 生涯を九十九里の利水に捧げた われらの敬愛する野口初太郎技師…」と刻まれてあった。 *椿海(つばきのうみ)の干拓を成功させた鉄牛(てつぎゅう)和尚(東庄町公式HPより抜粋) 東庄町・干潟町・旭市・八日市場市にまたがる低湿地帯は、かつて海水が湾入していたが、沿岸流の発達により閉鎖され椿海という湖となった。 寛永16年(1639)頃から椿海の新田干拓が計画され、この大工事は寛文11年(1671)に完成した。この事業により干潟八万石といわれる良田2,741町歩が整備され、18か村が形成された。その中心となったのが鉄牛和尚である。 鉄牛和尚は、寛永5年(1628)山口県に生まれ、幼名を才之助といった。14歳のとき、因幡の龍峰寺に隋身し、提宗禅師のもとで学び慧覚と改名した。明暦元年(1655)長崎に赴き、宗祖隠元禅師に師事した。満治2年(1659)号を鉄牛、名を道機と改める。寛文6年(1666)印可を与えられ、のちに江戸・芝の瑞聖寺、向島・弘福寺を開山している。 鉄牛和尚は、椿海の開拓による功績で寄進された福聚寺(東庄町小南)で晩年を過ごし、元禄13年(1700)73歳で永眠した。 ▽椿海干拓事業は黄檗三大事業の一つ 鉄牛禅師が師事した隠元禅師は、明末の動乱期に長崎に渡来し、黄檗宗を開いた。黄檗宗は当初、臨済正宗黄檗派と称していた。しかし、法規などが中国的で、日本の臨済宗と異なったため、独立して、明治9年に黄檗宗と改めた。黄檗宗は念仏禅が大きな特徴である。 黄檗事典は、椿海干拓事業役割について次のように詳しく触れている。 *「つばきぬま かんたくじぎょう (椿沼干拓事業) 鉄牛道機(てつぎゅうどうき)禅師が支援し完成に導いた千葉県内に於ける干拓事業。…江戸時代初期、この地帯に新田開拓の着眼をした杉山三右衛門は幕府の許可を得て資材を投じて干拓に着手したが資力つきてこの地を去ったという。 その後、白井治郎右衛門が新たに着手したが、やはり志半ばで断念せざるを得なかったことから、白井は幕府棟梁である辻内刑部左衛門にこれまでの経過を説明し、なんとか応援をして欲しいと申し入れたという。刑部は、白井の申し入れに賛同したものの、自分たちの力だけでは何ともならないと考え、大老・酒井忠清が帰依する鉄牛禅師に助力を求めることにした。 鉄牛禅師は、大法を弘むることも民の利を興すことも衆生を利済することでは同じ事だとし、早速老中の稲葉美濃守正則に進言したところ、幕府が資金を拠出する方向で話がまとまり、ここに干拓事業が大きく前進することとなった。 椿沼干拓事業以外の黄檗三大事業とは黄檗事典によると、龍谿性潜(りょうけいしょうせん)禅師の黄檗興隆事業(黄檗山万福寺開創)と鉄眼道光(てつげんどうこう)禅師の大蔵経開刻事業。 ▽福聚寺と福聚禅童女 「鉄牛禅師の志を継いだ人」と石碑に刻まれた野口初太郎の足跡を調べていて、ぎょっとした。鉄牛禅師が開山の福聚寺の名前にである。建長寺の高井正俊宗務総長につけていただいた、私の初孫の福ちゃんの戒名と同じだからだ。福ちゃんの戒名は「福聚禅童女」。縁を感じる。いつの日か、なぜ、これほどまでに野口初太郎が大利根用水事業に情熱を傾けたのかを調べてみたい。きっと、手紙や写真を大切に保存していた父や野口初太郎、それにご先祖さまの供養になるに違いない。 *参考 疎水百選 #
by kitakamayunet
| 2006-08-27 10:23
| 無名人からの伝言
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